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 上っていく煙草の煙が夜の闇に溶けるその先を見つめながら、塔屋に預けた背中のほうから響く靴音を聞くともなしに聞いていた。屋上に唯一の蛍光灯は明滅し、どこからか吸い寄せられてきた羽虫が靴音の合間に耳障りな羽音を立てている。  ガチャリと音がして開いたドアのほうへ振り向くと、塔屋の中の明かりを背にまとって大柄な青年が姿を現した。闇に慣れた目に屋内の光は少々目映く、塔屋に凭れて一服していた男は目を眇めた。 「探しましたよ、ヨクン。もういらしてたんですね」  低いが張りのある若々しい声をした、この青年は名をドルデモという。三年前、若干二十五歳にして警察組織の特殊部隊に入隊した麒麟児である。精悍な顔立ちには緊張や気負いがまったく見られず、年齢にそぐわない落ち着きがある。支給された制服の上からでも、鍛え抜かれたその肉体の逞しさは推し量れるというものだ。 「なんだ。もう出番か」  ヨクンと呼ばれた男は無精ひげの生えた口元を歪ませ、煙をひときわ長く吐き出してから床に押しつけ煙草の火をもみ消すと、立ち上がってからも足で念入りに踏みつけた。  ドルデモがおよそ三分後に対象(ターゲット)が目標地点に現れることを伝えると、ヨクンは制服の上に羽織ったよれよれの外套を屋上の風になびかせ、屋上の角まで移動した。ドルデモがついていくと、その角にはすでにある物がバイポッドに取りつけられ準備されていた。  ボルトアクション式のスナイパーライフルである。現在でも利用されているものの若者の感覚としては旧式に当たり、ドルデモからみても使い込まれた感がある。  ヨクンが腹ばいの姿勢でスコープを覗き込んで照準先を微調整していたが、それもすぐに終わった。目配せするので「あと四十六秒後です」とドルデモが告げると、ヨクンは何も言わずに再びスコープを覗いて待機姿勢に入った。  もう羽音は一切聞こえない。身動きするだけで空気に斬り殺されそうな緊張感があたりを支配した。ドルデモは体内時計で何秒後かを数えながら、一瞬で本番の空気を作り出すヨクンを改めて見直す気持ちだった。  体内時計でちょうど残り十五秒となったとき、八百六十メートル先にあるビルの二十六階の一室に明かりが点った。対象が目標地点に現れたのだ。ドルデモが双眼鏡を取り出したとき、金具が当たって小さな音がしたのでヨクンの気を削いだかと思ったが、ヨクンにそのようすは見られない。ドルデモは黙ったまま双眼鏡を目に当てた。  間違いなく対象が室内にいることを確認すると、あとの数秒間は永遠に続くようにも、また一瞬で過ぎ去ったかのようにも思われた。  パン!  音が衝撃となって身体に伝わった。  対象がこと切れたのをドルデモが双眼鏡越しに見届け終わったころには、ヨクンは何事もなかったかのように立ち上がり、愛用銃の片付けをはじめていた。無線で連絡が入ったのか、ヨクンが小声で「任務は完了した。これから帰還する」と話すのが聞こえる。  百発百中。ドルデモがヨクンとバディを組んでもう二年と半年になるが、今まで一発で決まらなかったことはない。  この人がどうして特殊部隊の狙撃班止まりでくすぶっているのか、ドルデモには疑問だった。
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