抗うことのできない恋ならば、いっそこの手で壊してしまえばいい

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 そんなことを考えた矢先だった。目の前に座っている伯爵が、頬をニヤニヤさせた。  口元を歪める下品な笑い方に眉をひそめた瞬間、僅かだったが鼻先に何かが香る。豪邸と表現できるこの屋敷には似つかわしくない、とても質素で地味な――。 「これは、野菊の香り?」  勿論、隣の部屋同様に、この部屋にも草花は置かれていない。それなのにベニーが最初に指摘した、野菊の匂いがすることに胸騒ぎがした。 「へぇ、多少は流れてくるものなんだな。隣り合っているから、それはしょうがないか」 「アーサー卿、貴方いったい……」  がたんっ!  伯爵の魂胆に底知れぬ何かを感じ、怯えて震える僕の呟きは、隣から聞こえた大きな音にかき消された。 「ベニー!?」  異変を察知して腰を上げた僕の腕を、伯爵が咄嗟に掴んで引き留める。 「行かないほうがいい。大丈夫、彼はただ眠ってるだけだから」 「ベニーに何をしたんですかっ?」  悲鳴に似た怒号が、無機質に室内に響いた。そんな僕の怒りも何のその、マイペースを貫くように伯爵は柔らかい笑みを浮かべる。 「執事殿には睡眠効果のある香の作用で、大人しく眠ってもらっただけさ。この後おこなわれる大事なコトの、邪魔をされないようにね」  ところどころアクセントを置いた伯爵のセリフに、全身から血の気が引く。  それでもこの状況を脱しなければと、無意識に掴まれている腕を振り解くべく、必死にもがいてみた。だがそれ以上の力で握り締められて、強引に動きを止められた。 「この手を放してくださいっ、嫌だ‼︎」 「男爵の腕を解放したら、このまま逃げる気なんだろう? そうなると置いてきぼりにされた執事殿が、どうなってもかまわないというんだね?」 「それは――」 「自分さえ助かればいい。男爵はそういう、卑怯な人間だったということなんだな」  伯爵の言い放ったセリフで、抵抗する腕の力が自然と失われてしまった。 『私に何かが起こって、どうしてもお助けできない場合は、お願いですからどうか見捨てて、ローランド様おひとりで逃げてください。いいですね』  舞踏会の会場でキツく言われたことが、頭の中を駆け巡る。伯爵から手を放された今なら、扉に向かって逃げることが可能だった。 (アーサー卿に卑怯者呼ばわりされようが、ベニーとの約束を守るのが最優先事項だ。何としてでも逃げなくては――)  このまま背中を向けたら、伯爵に襲われる気がした。足を引っかけるものがないか背後を気にしながら後退りしつつ、確実に扉に向かう。  そんな僕を捕まえることなく、伯爵は胸の前に腕を組んで、悠然と眺めていた。 「男爵、俺は君にだけ優しいが、他の奴にはそんな情けをかけないからな」 「…………」 「君がこのまま出て行ったら、さきほど逢った用心棒が控える部屋に、執事殿を連行する」  それは、ちょうどドアノブに触れたときに告げられた。てのひらに感じるドアノブがなぜだか冷たくて、まるで氷を掴んでいるみたいだった。 「用心棒三人がかりで、執事殿をどうするか……。日頃のうっ憤を晴らすのにサンドバッグにされるか、あるいは性的欲求を満たすために弄ばれてしまうのか。どっちにしろ、ボロ雑巾のように扱われるのは目に見える」 「そんなの、あんまりだ……」 「これをとめることができるのは男爵、君しかいないんだよ」  ドアノブを動かして扉を開けて、廊下に飛び出る。そのまま真っ直ぐ走って、突き当りを右に曲がり、すぐさま左に曲がって正面玄関を目指せばいい。  頭の中で次の行動が指示されているというのに、扉の前に立ち竦んだまま、動くことができなかった。ドアノブを掴む手ですら、ぴくりとも動かせない。 「ベニー……」 「心の優しい男爵の気持ち、俺は分かっているよ。さぁこの手を取りたまえ」  伯爵はそこから動くことなく、僕に向かって右腕を差し出した。 「……嫌です」  蚊の鳴くような弱々しい声だったが、はっきりと拒否したというのに、伯爵は差し出した手を下ろさなかった。 「来週あたり、国王陛下から男爵宛に手紙が来るはずだ。内容は土地のことについて。俺が君を推薦したら、首を縦に振って了承してくれたよ」 「そんなこと……」 「頼んでいないと言いたいだろうが、君が断れないように恩を売った。理由は分かるね?」  僕は問いかけに答えず、縦にも横にも見える感じで首を振った。恩を勝手に売った伯爵に苛立っても、文句のひとつすら言えない状況に追い込まれていた。  自分とベニーが助かる方法を必死になって考えてみたものの、どうあがいても覆せない展開ばかりが頭の中を支配する。 「力があるものが、この世を支配する。俺たちの関係もまさにそれさ。しかも俺に目をかけられただけで、領地が広がったんだ。先祖代々アジャ家を守ってきた先代たちも、さぞかし喜ぶことだろう」 (自分の躰と引き換えに領地を広げたことを知って、誰が喜ぶというのか――) 「俺の傍にいるだけで、男爵の力が増していくのは確実だ。まずは手はじめに、執事殿を守ることからはじめたらどうだい?」 「ま、もる?」 「ああ。身近にいる者を守れないヤツは、権力を得ることに必死になって、手元が疎かになる。誰も守れない、無能な人間に成り下がる」  もっともらしいことを告げられたせいで、ドアノブにかかっていた手がするりと外れた。 「優しい男爵が力の使い方を学べば、民たちが今よりもたくさん、喜ぶことが増えるんじゃないだろうか。俺は純粋に、その手伝いがしたいと思ってる」 「民たちが喜ぶ、こと……」
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