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私が寝たふりをしてから数分、彼女は布団と畳の音を鳴らし、摺り足で部屋を出て行く、トイレの扉が開く音を聞き私も布団から起き上がる。
彼女はその後台所へ行くと、がさがさと何かを袋に入れる。ツナ缶と魚肉ソーセージだろうか、それとも今日の夕食の残りだろうか。
靴を履き、玄関の扉を少し開く、雨音が部屋中に響く、その音を気にして家の中を見た妻と私の眼があった。
「貴方」
目を大きくし驚いているのが分かる。
「行くのか」
レインコートを着た妻は寂しそうに頷く。
「気づいてらしたんですね」
私も頷く。
「こんな雨でも行くのか」
私の声が大きく部屋に響く、大雨の音にも負けていない。
「彼には、タロウには私が必要なんです」
妻の眼には力がこもっていた。昔からそうだ、普段は一歩後ろを歩くような妻だが、どうしても譲れない事は頑固になる。あの眼はそんな眼だ。
「そうか」
「行ってきます」
彼女は夜に家を出た。
夜の街にこっそりと毎晩のように食べ物をもって、この台風の中レインコートまで着込んで外に出て行ってしまった。
もう、終わりなのだろう。
何十年一緒に居ても、生涯を共に進むことは出来なかったようだ。私の何がいけなかったのだろうか。
一目惚れだった。
見合いの席で、初めて出会った彼女は水色の着物を着ていた。帰り際にデートに誘ったのは、一世一代の勝負に思えた。
最初のデートは川が見える森林公園、水色のストライプ柄のワンピースを着ていた。子供みたいに笑う彼女を抱きしめて、橋の上で好きだと伝えた。
彼女の笑顔が好きだった。
いつも笑わせてあげるのだと交わした約束はいつからか、守れていない。ずっと守ると誓った筈なのに、私は彼女に怒鳴ってばかりで、ありがとうの言葉すら言わなかった。
好きだと言葉にしたことも、二十代の前半くらいで、そこから五十年彼女に何も言えてはいない。
悪いのは私だった。
いつも正しいのは、妻だった。
私は暗闇の中で膝をつき泣いて居た。
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