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「……そういえばあの人とも、この辺にドライブしにきたことがあったな」
そう独り言のように母が呟いたのは、しばらく経ってからのことだ。
まるで大切なことを思い出したかのような口調だった。俺は興味を引かれて、横目でちらちらと母の様子を窺った。
「あの人って、父さん? 米農家の長男?」
「米農家の人」
母がフロントガラスを指差す。
視界の先には、水墨画のように霞んだ山の峰々が連なっていた。
「ドライブの途中、『山の向こうに見える夕日が綺麗だから』って、車から降りて、二人で橋の上で肩を並べてね……たしかその時よ、プロポーズしてくれたの」
「へえ……ロマンチックじゃん」
「そうね。今思えば、結構ロマンチックな人だったわね」
母がかすかに笑うような気配がした。
横目で見ると、母の顔には、珍しく穏やかな笑顔が浮かんでいる。
こんなに柔らかい表情を見るのは、いつぶりだろうか。俺はなんだか嬉しくなって、声を弾ませた。
「それって、どこの橋?」
「そんなの、もう覚えてない」
ちょうど、もう少しで辺りが夕暮れに染まる時間だった。
俺は路肩に車を停めると、カーナビの地図で近くの川を探し、そこに架かる大きな橋を目指して進路を変えた。
母は最初、俺がどこを目指そうとしているのか分からなかったようだ。走り始めた時は、キョトンとしたまま助手席に収まっていた。しかし、しばらく走って、景観の良い橋の近くに車を停めた時、その顔にはみるみるうちに怒りの色が浮かび始めた。
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