30年前のプロポーズ

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「ねえ、綺麗だね」  俺はそう言って、母に微笑みかけた。  母は柵の向こう側に、じっと目を向けていた。そして、まるで睨みつけるように遠くを見つめたまま、 「そう? こんなの、どうってことないわ」  と冷たく言い放った。  しかしその表情は、どこか懐かしそうで、それでいて悲しげな、複雑な色を帯びているように見えた。  思わず息を飲んだ。  母は俺の視線に気付くと、ぷいっと顔を背け、一人でさっさと車の方へと戻っていく。  母の中にある、誰にも見せない繊細な部分に、少しだけ触れたような気がした。俺は少しドギマギしながら、ゆっくりとその背を追った。 「私って嫌な女よね。昔からそう」  辺りがすっかり闇に染まった頃、母が突然ぽつりと呟いた。  俺は車のハンドルをしっかりと握り、前を向いたまま笑った。 「そんなことないよ。結構可愛いところだってあるよ」 「フン、お世辞はやめてよ。気持ち悪い」  冗談めかした軽い調子に、母は少し気が緩んだようだ。ふーっとため息をついて、ぼんやりとした口調で言う。 「……本当に嫌な女よ。わがままで、勝手で、打算的で。時々自分でも嫌になる。離婚したのもね、本当は私からじゃなくて、お父さんからの提案だったの」 「えっ、そうなの?」 「そう。愛想尽かされたのは、私の方……」  自嘲気味に笑いながら、母は静かな声で続けた。
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