30年前のプロポーズ

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「ひとりぼっちになると、つまんないわ。振り回す相手がいないと楽しくない」 「人を振り回すのが前提なのかよ」 「そうよ。でも、こんな三十路間近の息子もいて、もう恋にうつつを抜かすような歳でもないしさ……どうせ誰からも相手にされないから、今はアンタを恋人代わりにして振り回してるのよね」 「俺、恋人代わりなの? ずいぶん男の趣味が悪いじゃん」 「そうよ。私って、男の趣味が悪いの」  そう言うと、それきり母は沈黙した。  高速道路のゲートを抜けて、車を加速させる。ぽつんぽつんと並んだテールランプの列が、遥か先まで続いている。  塀に囲まれた単調な道を延々と進んでいるうちに、いつしか俺の脳裏には、橋の上で見たあの美しい景色がぼんやりと浮かんでいた。 「母さん。また恋しなよ。『そんな歳じゃない』なんて言わないでさ」  気が付くと、そんな言葉が口からこぼれた。  母からの返事は無い。俺は運転に集中したまま、静かに続ける。 「今度は打算とかじゃなくて、もっと優しい気持ちになれるような恋をさ……」 「……」 「大丈夫だよ。いくつになったて、母さんは可愛いんだから」  可愛いなんて言ったら、どうせまた「気持ち悪い」と返ってくるだろうと思った。しかし、母はやっぱり黙り込んだままだ。  目だけをちらっと動かして、助手席の様子を窺った。  母は、すっかり眠り込んでいた。  まるで少女のようなあどけない顔をして、窓際に体重を預け、静かに寝息を立てている。 「まったく、マイペースな人だな」  俺はひとり笑って、またハンドルをしっかりと握った。  それから家までの数時間、母を起こさないように、ブレーキの踏み方には気を付けながら車を走らせた。  母は今、どんな夢を見ているんだろう。穏やかで、優しい夢を見ているといい――そんなことを考えていると、なぜだか俺の胸にも、優しい気持ちが湧いてくるような気がした。
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