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相変わらず場のもたない無言のまま、車が山間部の県道にさしかかった時だった。
沈黙をラジオで慰めていた車内に、不意に美咲の声が湧いた。
「ねえお父さん、ぽかぽかあんよ、寄ってこうよ」
“ぽかぽかあんよ” ──?
一瞬意表をつかれはしたが、久しぶりに聞いたそのフレーズに、思わず僕の神経が跳び起きる。
この先の山の中にある足湯場を、ぽかぽかあんよと教えたのは、僕だったか妻だったか定かではない。
けれども、“足湯場” ではなくて、“ぽかぽかあんよ”
忘れかけていたその響きは、僕をたちまちのうちに舞い上がらせるだけの力があったのだ。
美咲が小さい頃、その足湯場は、ショッピングモールの帰りに決まって立ち寄る定番のコースであり、この道を通る度、彼女は必ずと言っていいほど、ぽかぽかあんよに行きたがったものだ。
何故今になって、美咲が突然そんなことを言い出したのかはわからない。
それでも、遠い過去の時間がひょっこり戻ってきた気がして、僕は目尻を下げた顔でバックミラーを覗く。
そこには、スマホから目を外し、車窓を眺める美咲の横顔が映っていた。
あの頃の面影をふんだんに残しながらも、あの頃には想像さえ出来なかった、どこか憂いを秘めた横顔が。
「ねぇお父さん、あの鹿の親子さ、まだいるかな?」
「もちろんいるとも。
あの子鹿ももうすっかり大きくなって、立派な角なんか生やしちゃんてんじゃないかな?」
「そうだね……
みんな、大人になってくんだもんね」
呟くように溢した最後の一言が、僕の胸にチクリと刺さる。
そう言えば、美咲がぽかぽかあんよを毎回のようにねだったのは、足湯場そのものが目的というわけでもなかった。
美咲がまだ6才くらいだったろうか。
それへ向かう道すがらの山道で、ある日たまたま見かけた鹿の親子。
彼女はもう一度その鹿達に会いたくて、何度も何度も、僕の車を足湯場に向かわせたのだった。
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