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麓へ車を停め、徒歩で登る杉の林道には、まだ汚れていない真っ白な雪が、木漏れ日を受けてキラキラと輝いていた。
人気もなく、エンジン音も届かない静かな山の中に、僕と美咲の足音だけがどれほどか続く。
ほどなくしてたどり着いた足湯場は、湯桶の上に柱ばかりの吹きさらし、それに雨避け程度の屋根が乗った、本当に簡素なものだった。
白濁した湯から立ち上る湯気が、この静止した世界での唯一の動体であるかのように、ゆらゆらと踊っている。
落ち葉混じりの雪を椅子から払い除けると、さっそく美咲が靴を脱ぎ、その中にソックスを丸めて入れ始めた。
椅子に並んで座り、次いで僕も足を入れると、温かい心地よさがたちまち体に浸透してきて、何か胸のしこりまでも溶け出していくよう。
「あー、あったかい!」
隣から上がった声を向くと、子供みたいに無垢な笑顔の美咲がおり、僕も釣られるように自然と顔が綻んでいた。
山の中腹にあるその足湯場からは、僕たちの町が一望出来た。
ほんの小さな田舎町だけれど、美咲にとっては生まれ育った故郷であり、人生のスタートラインを迎えた町。
美咲と共有してきたたくさんの思い出と共に、彼女にとっては、僕の知らない思い出もたくさん育んできたのだろう。
そんな当たり前の事に小さなジェラシーも感じてしまうけど、逆に、僕だけしか知らない彼女の思い出だってあるのだ。
例えば、平均よりも2ヶ月ほど早く、美咲が初めて自分の足で歩いた時。
覚束ない足取りで、僕のところによちよちと歩み寄ってきた時のあの感激は、今でも昨日の事ようにはっきりと覚えている。
本当に、時間の経つのは早いものだ。
家族でよく行っていた蕎麦屋は、今は潰れてコンビニになっていた。
美咲の七五三の写真を撮った写真屋も、とうとう一昨年シャッターを下ろしてしまった。
僕自身だって随分小皺が増え、腹が出てしまったのだから、移ろいゆく時間は、決して逆行することなく、これからもずっと流れ続けるのだろう。
遠くの町へ巣立っていく娘に、今の僕がしてあげられることは、ただ、信じること。
信じて、見守ること。
やがて僕がいなくなってしまっても、美咲が自分の足で、しっかりと歩んでゆけるように。
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