第1部

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第1部

 細い脇道から突然飛び出してきた人影に驚いて、思わず立ち止まる。人気のない住宅街。明滅する街灯が、うすぼんやりと男を照らす。視線が絡む。片手に下げたコンビニの袋から漂う肉まんの匂いと、目の前の男が纏う、錆びた鉄のような匂いが交じり合う。知った匂いだと、遠野は思う。  「……血、ついてますけど」  べたりと、男の腹のあたりが汚れていた。闇の中で薄墨色に見えるそれを示し、遠野は思わず口にし、口にしてからあーあと思う。あーあ、またやった。思ったことを口に出すのは自分の悪い癖だと、この三十年弱の人生の中で何度思ったか知れない。何度も反省して、何度も繰り返してきた。馬鹿みたいに、何度も何度も。今ももう、口にした言葉は戻らない。可能性を考える。男との距離は二メートル弱。パターン1、口封じに殺される。これは一番まずい。これだけは回避。考えた瞬間、手にした袋を足元に落とす。喧嘩は弱い。足も別に、速くはない。助かるには、まずは叫ぶ。でも、あまり目立ちたくはないのが本音。とりあえず、一撃で殺されるのを避けられれば、叫ぶのはその後でいい。パターン2、向こうが逃げる。これは問題ない、家に帰って肉まんを食べて、予定通りに今日が終わる。最悪は死ぬこと。その次に悪いのは、動けないほどの怪我をすること。それ以外なら、まぁ、そんなに悪くない。  男は少し逡巡するそぶりを見せた後、ぽつりと言った。  「……吸血鬼なんだ」  パターン3、と遠野は一人ごちた。吸血鬼。ハロウィンかよ。時期的には遠からず。血塗れた男は困ったといった風に眉根を寄せ、小首を傾げて肩を竦めた。まあ、夜でも際立つ肌の生白さは確かに、吸血鬼らしいと見えないこともなかったが、べたべたのTシャツにフルジップパーカーを羽織った無個性な出で立ちにはあまりにも不釣り合いだった。吸血鬼。遠野の視線の先、男はハンズアップの姿勢を取り、両手を顔の横でひらりと振った。  「あいにく俺は腹いっぱい。あんたに危害を加えるつもりはない。ので。そこ通してくんない?」  遠野は黙って肉まんを拾い、ブロック塀に背中を押しあてるようにして道を譲った。  「どうも」  男はにっと口元を歪めて笑い、パーカーのチャックをシミが隠れるところまで上げきってから、足早に遠野の前を行き過ぎて行った。横顔の位置は、遠野よりも少し低い。足音に耳を澄ませて十分。遠野はその間ただその場に立ち続け、食べこぼしのひどい吸血鬼の食事の様子について想像を巡らせた。  平日の間昼間から制服で道を歩く女子高生は一体何者なのか。目深に被ったキャップのツバ越しに見かけた女子高生は、ハイソックスの足元しか見えない。最近はどこにでもあるパーテーションで区分けされた喫煙所の隅で、間仕切りに背中を預けて座り込み、くわえ煙草で二車線道路の向こう側を行き来する人々を見るともなしに眺めながら、松岡は意味のない問いかけ一つを頭蓋の中に反響させた。がらんどうの骨の中は一種の音楽ホールで、言葉は永久に反響し、消えないままただの音になる。意味を失った問いはそうして、制服・昼間・女子高生といういくつかの言葉の断片になり、それでもわんわんと脳内を騒がせ続け、おかげで、余計なことを考えずに済んでいた。徹夜明けにしては目が冴えているのは、散々慣ならされた訓練の賜物なのか、もう二時間ぶっ続けで吸い続けている煙草のせいなのかは釈然としなかったが、とりあえず目は冴えていた。頭ががらんどうなのはいつものことで、そういう意味では今、自分はともかくも平常運転だと、松岡は制服と女子高生のはざまで少し考えた。  「……日光、平気なんすね」  その声が耳に入ったのは、ただ、ひどく近くで聞こえたからというそれだけの理由だった。それなりに広さのある喫煙所に、松岡を含め四人……いや、今は五人。つい先ほどまでは四人だったが、一人、松岡の真横に立った男がいた。近い。視界の隅に、履き古したコンバースが入り込んでいる事に、その瞬間に気が付いた。  ジッと百円ライターを擦る音が頭上で聞こえ、わずかな沈黙の後、ふぅっとわざとらしく煙を吐き出す音が続く。演技じみた男の挙動に微かな不審を感じ、重い頭をやっとの思いで数度上に傾ける。こん、と。男は灰皿のふちに、口の空いたペットボトルを置いた。  「……日光がダメってのは迷信なのかな。……あとなんでしたっけ?吸血鬼の弱点って」  その瞬間、頭蓋の中で警報が鳴った。何かが。何かが引っ掛かった。何だっけ。  「……これはどうかな」  微かな笑いを含んだ声が頭上から降ってくる。男が身じろぎ、松岡ははじかれたように顔を上げる。かぶっていたキャップがぱさりと落ちた。同じ姿勢で座り続けたせいで、折り曲げたひざの関節が軋み、とっさには立ち上がれなかった。  見上げた男は、灰皿に腕を伸ばし松岡を見下ろしており、声の感じにそぐわぬ無表情で、煙草を持った手をコーラの入ったペットボトルにとんと当てた。 「……あっ」  声を上げたのは男の方だった。そこからはスローモーションのように映像が流れ、傾いたペットボトル、こぼれだした黒色の液体、それらを目にした直後、松岡の体はプログラミングされた本能のままに動き出し、まぶたを閉じて反射的に顔を下に向けたところで、頭の上から甘ったるい液体をかぶり、昨夜、二十四時間営業の量販店で買いそろえたTシャツやバスパン、ペラペラの靴に至るまで全て、コーラの餌食になった  「うわ、すいません」  隣の男がしゃがみこんだのは気配で分かった。目を開けると、心配でたまらないという表情が向けられており、脳の大半の壊れた部分では役者だなと感心し、もう少しまともに動く部分では、昨夜の出来事、吸血鬼という戯言、闇にあった顔一つを想起し、この男は自分にとって敵なのか味方なのか、コーラをぶちまけられた意味などを少しの間考えてみたが答えは出ず、考えるのは自分には向かないのだという一つの結論に行き着き、ポケットに忍ばせたバタフライナイフを無意識に確認したが、人通りのある通りでそれを取り出すほどの緊急性は見いだせず、松岡は取りあえず、コーラのしみ込んだ煙草を摘まんで捨て、いいえと返した。  「あぁ、でもびしょびしょですよね。シミも…すみません。クリーニング代……あ、よかったら、俺の家近いんで、来てもらえませんか?着替えとか……」  慌てた様子で言葉を紡ぎ、ポケットから取り出した財布をごそごそと確認する様子は、傍から見れば間違いなく、“自分の不注意で他人の服を汚してしまって慌てている青年”で、その男がまさか、財布を探るそぶりをしながら、昨日の事、ばらされたくないすよねと呟いているとは誰も思わないだろう。脅されている、が、その真意は読めない。昨夜、この男は松岡に出会っており、あの時は従順だった。あれから丸半日が過ぎている。あんなことがあった後でこの場を離れなかった自分も自分だが、この男は、血みどろの男の話を今まで誰にもしなかったのか。それに、バカはバカなりに考えて、服を着替えたのも帽子を買ったのも、気休め程度でも姿を隠すための策だったのだが、ただ一瞬顔を合わせただけの相手にこうもあっさりと見破られるものなのか。  「……来てもらえますか?お詫びもしたいんで」  言葉とはちぐはぐな酷薄な光を宿した視線を向けられながら畳み掛けるように問われ、思考が絡まる。やっぱり、考えるのは向いていない。シンプルにいこう。最悪は何か。捕まること。また、あの場所に戻されること。……それに比べたら、他は全部、悪くない。  「……ああ…じゃあ」  お願いします、と返すと、男はほっとしたようにため息を落とし、こっちですと先に立って歩き出した。きしむ膝を伸ばして立ち上がり、脱げたおかげで濡れることのなかった帽子を拾ってかぶり直しながら少し早足にその背を追うと、振り返りざま睨むような一瞥で、距離、と一言牽制され、松岡は再度役者だなと考え、呑気な自身の思考も、真昼間の公道で俳優顔負けの演技をする男も何か滑稽で、可笑しくなって少し笑った。  「そこで止まって」  近い、という割には散々歩き回らされ、濡れた服の湿っぽさよりも乾きかけたジュースのべとつきが気になりだした頃、ようやく男は一軒の古びたアパートの前で立ち止まった。外階段を上って2階。一番手前の部屋の扉を開け、松岡をまず部屋に上がらせる。玄関を入ってすぐに畳敷きの部屋があり、その奥にカーテンのない窓が一つ、左手に小さなキッチン、その奥の扉は、風呂かトイレだろうか。ごくごく小さなワンルームの部屋の真ん中には、小ぶりなボストンバッグ一つ、それ以外は何もなかった。  男に言われるまま靴を脱ぎ、荷物の横まで歩を進め、そこで止まる。  「こっち向いて」  言われてゆっくりと体を回すと、家主は土足のままで畳に上がり、おそらくキッチンに置いてあったであろう包丁を握ってこちらを向いていた。表情はない。  「先言っときますけど、別に俺はあんたになんかしようってつもりはないんで。これはただの自己防衛」  両手で握りこんだ包丁の切っ先を少し振って見せた後で、取り敢えず、服全部脱いで下さいと、男は無表情のまま言い、松岡は言われるがまま帽子を外し、Tシャツとバスパンを脱ぎ、ボクサー一枚になって男を見返し、下着のゴムに親指を突っ込んだ。  「これも?」  「…それは、いいや」  意外と甘い、と思う。カミソリの刃くらいなら下着の中にだって隠せるのに。といっても実際には、松岡の下着の中には特にこれといって何も入ってはおらず、この場に限れば、男は特に判断ミスをしたわけではなかったし、松岡に甘いといわれる筋合いもなかった。  「脱いだ服は玄関に投げて」  言われるままにバスパンとTシャツを玄関に放ると、ポケットの中のナイフが地面に当たってカンと音を立てた。包丁を構えた男はその音にわずかに反応したが、視線は松岡を向いたままだった。  「……もうなんもない」  下着姿のまま両手を挙げて言うと、じゃあそのまま座って、と男に促され、両手を挙げたまま床にあぐらをかくと取り敢えず、男も構えた包丁を下ろし、自分は立ったままシンクに背中を預けた。  「殺したんすか」  「……死んだかな?分かんない」  「殺したことは?」  「あいつが死んでれば、あるけど」  「そういうニュースはなかった」  「あ、そう?じゃあ死んでないかも。それか、姉ちゃんが困ってるんかも」  「……お姉さん?」  「……姉ちゃんは関係ない。俺が姉貴の前で父親を刺したから。その後どうなったかは知らない」  気持ちの悪い家族。父親と姉の子供は、松岡にとって兄弟なのか、姪なのか。逃げ出さない姉。倫理を失った父。  母が男を作って出て行ったのは姉が高校に上がったころだった。自由人だった母と違い、父は愚直で真面目な男で、母がいなくなった後も、家族は父を中心としてそれまで通りに回っていた。不都合がなかったわけではない。もともと共働きでやっていた家族だ。工場で働く父の収入は十分とは言えず、姉は高校を中退して働くことになったが、姉自身はそれを苦とする様子もなく、松岡も、貧しいなりに幸せだった。あの頃は確かに、俺たちはまともな家族だった。何もなければ今だって、貧しいなりに幸せな家族三人、こんな風にはならなかったのかもしれない。……とはいえ、もしかしたらの話をしても現実は変わらず、ここにあるのは、衝動に任せて父に刃を向けた息子であり、掛け違ってぶっ壊れた家族の形だけだった。  昨日はたまたま、必要なものがあって家に寄った。部屋は暗かったし、鍵もかかっていたから、誰もいないと踏んで中に入って、そしてたまたま、父親が姉に乗り上げている場面に遭遇した。別に、そういう事態が初めてだった訳ではない。今までにも何度かあったし、そういう時には無視して用を済ますか、黙って出て行くかしていた。ただ、昨日は。何故か一瞬、我を忘れた。かける言葉もない。ただ衝動に任せて、父の背中にナイフを突き立てた。ポケットの中のバタフライナイフ。あんなもので人が死ぬとは思えない。だから多分、死んではいない。前のめりに倒れた父親からナイフを引き抜き、脇腹を蹴って転がすと、裸の姉が目を見開いてこちらを見上げており、松岡は思わず舌打ちをして、薄汚れた布団をその身体に被せた。  身体を隠して起き上がった姉は、しばし呆然と、素っ裸で呻く父を見やり、困ったようにこちらを見上げて、涼介、と松岡の名を呼んだ。  喉を、と考えた。喉を切れば死ぬだろうか。死ぬかもしれない、と思う。殺してしまえばいいじゃないか。こんな男、死んでしまえばいいのに。  隣の部屋から、子供の泣き声が聞こえる。  茜、と、姉が呟いた。茜。綺麗な名前だと思った。姉がつけた。父の子だ。そして、姉の子でもある。小さなあの生き物を、憎めばいいのか、愛せばいいのか、わからなかった。一度だけ、抱いた。ものすごく暖かくて、柔らかかった。  ふと我に帰る。腹のあたりがべたりと暖かかった。ナイフと両手が、赤い血に塗れていた。  ー……これ、持って。茜と逃げて  ポケットに突っ込んだ財布を姉の足元に投げ置いて松岡は言い、ナイフをたたんで、血に濡れたままの両手をポケットの内の布でこすった。今月分の給料と、家賃。有り金全部。でも、逃げる資金としては不十分。自己満足、と胸の内に思う。  ーもし警察来たら、俺がやったって言って。姉ちゃんは関係ない。あとこいつは、犯罪者だ  死んでも誰も文句はない。もう一回くらい蹴り上げてやろうかとも思ったが、触れるのも嫌で辞めた。そうしてそのまま、家を出た。  道中、携帯は捨てた。GPSで場所が割れるかもしれないと思った。警察に捕まるのは別に構わない。父親に会うのが嫌だった。その隣にもし、姉がいたら。そんなことには耐えられない。だからもう二度と、会いたくない。  「なんか期待してたならごめん。俺は吸血鬼でもないし、人殺しでもない。……あんたよりよっぽど、普通の人」  なるほどと、男は言い、一瞬の逡巡の後ため息を一つ落とし、片手に持ったままの包丁の切っ先をキッチン奥の扉に向け、シャワーどうぞと無感動に告げた。  金ないならうちいてもいいすよ。風呂上がりの松岡に自分のジャージを投げてよこし、男は言った。立ち位置はシンクの前だったが、もう包丁は持っていなかった。  「俺、明日ここ出るんで。契約は一応あと一週間あるから、鍵だけちゃんと大家に返してくれれば。あと服、それあげます。うち洗濯機ないんで、あれ洗えないから」  男は靴を脱いでおり、先程松岡に放らせた服は、黒っぽい染み付きのまま、丁寧にたたんで玄関先に置いてあった。意外と、育ちはいいのかもしれない。ポケットに入れてあったバタフライナイフは、その服の上に置いてある。  松岡の視線を追い、男が言う。  「あれは、部屋の中では持たないで下さい。刺されると嫌なんで」  「……刺さないよ」  もともと、ほとんど使わないナイフだ。一時期つるんでいた仲間に持たされて、喧嘩で何度か振り回したことはあるが、加減がわからなくて怖いから実質はほとんど未使用。パタパタやって威嚇するための道具。  松岡は自主的に部屋の真ん中に戻って、畳の上に腰を落ち着けた。疑われて、先程の言葉を取り消されるのも勿体無い。  「松岡」  「は?」  「名前。部屋借りるから一応」  男は一瞬ぽかんとした表情をしたが、直後おかしげに笑った。  「律儀だな。別に気にしないすよ」  くつくつと笑う男を見遣る。年齢的には、多分、松岡よりも少し上。猫背のせいで気づかなかったが、背が高い。180は越えている。すらりとした、どちらかといえば細身の身体にも関わらず、堅気でない威圧感を感じたのはおそらく、この長身と無表情のせいで、笑うと案外、優しげな顔をしていた。  「あとこれはもらいます。俺の、さっき終わったんで」  ひとしきり笑った後で、男はコンロの脇に置いたタバコを手に取り、松岡に向けて振ってみせた。タバコもポケットに入れていたはずで、男が取り出したのだろう。確かもう、何本も残っていなかったはずだ。どうぞと返した松岡の前で、男はひしゃげた箱から一本取り出し、すぐに咥えて火をつけた。  「……あんたの名前は?教えたくないなら、いいけど」  手持ち無沙汰で問いかけると、男は煙を大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出してから口を開いた。  「遠野。ここの契約名は佐藤、だけど」  「……じゃあ明日からは鈴木?」  ご明察と遠野は肩をすくめておどけてみせ、苗字ランキングの上位を行き来する男の生活がどのようなものか、松岡は一瞬想像を巡らせたが、自分も明日からは似たような生活かと思えば大した面白味もなく、結局すぐにやることがなくなり、やっぱり返してとタバコ一本を要求すると、遠野は片頬で笑い、ラスト一本になったタバコのパッケージにライターを突っ込んで、自身が灰皿がわりにしていた中身が僅かに残ったコーラのボトルと一緒に松岡に向けて放った。  「……飲まないんだ」  「炭酸、苦手なんで。たまたま喫煙所であんた見かけて。自販機で、一番かけられたら嫌なもんって何かなと思って買ったのがそれ」  確かに、サイダーをかけられるよりはよほど不快だったと松岡は思い、思ったものの口にはせず、ただ一言、ふうんと応じた。火をつけないまま煙草を咥え、灰の浮いたコーラを見遣る。  飲まれることのない飲み物は可哀そうだ。飲まれるために生まれたのに、こんな風に使われて。ぶちまけられて、灰皿にされて、捨てられる。何も果たさないまま、ごみ屑になる。コーラのボトルに手を伸ばす。灰の浮いた表面を見ながら、赤いキャップを開けると、投げられた衝撃でボトルに満ちた二酸化炭素が、ぷしゅっと音を立てて飛び出した。……俺が飲めば、報われるだろうか。不運にもめちゃめちゃにされたこいつの存在は、ほんの少しでも、救われるだろうか。  「……それ、灰、入ってますけど」  松岡の意図に気付いた男が、やはり無表情のまま、無感動に言った。松岡は、ボトルに口を付けてにやりとしてみせる。  「……俺、コーラ好きなの」  「あぁ……そう」  感情の見えない声をなおざりに聞き、松岡は灰の沈んだコーラを煽った。液体の滑った後には細かな黒い斑点が跡を作り、舌に流れ込んだ液体はピリリとした刺激を孕んでざらついていた。化学調味料の味やら匂いやらでも消しきれない、吐き出したくなるような風味を飲み下し、ほんのひと時、満ち足りた心地になる。少なくとも一口分は、コーラはコーラの仕事をした。  「……死ぬかも」  タバコの煙を吐き出しながら遠野が呟き、聞き取れずに何?と応じる。言葉とともに吐き出す吐息に、先ほど飲み干したコーラの味が蘇り、少し、気分が悪くなる。  「タバコ飲んだから、死ぬかも」  「飲んだら死ぬの?」  「死ぬかも」  食い下がる男の表情は変わらず無表情だったが、やけにまっすぐこちらを見つめる瞳は、先ほどまではなかったなにがしかの感情でぎらついており、その激しさに一瞬、松岡は見入った。何か。自分にはない何かを、そこに見つけた気がした。つるりとした瞳の向こう側、ライターの火のように、一瞬で燃え上がって消える微かな揺らぎ。  「……そんな簡単に死ねないよ」  微かな残り火に目を凝らしながら、松岡は告げた。死にたくたって死ねない。そんなに簡単じゃない。ついと、遠野の視線が逸れる。あ、と思う。もう少し、見ていたかった。  「……死ぬかもしれない、のは、別に、いんすね。刺したのばらされるんは嫌なのに」  「……ばらされんの嫌って言ったっけ?」  「言わないけど……ここまでついてきたから」  「捕まりたくないだけ。警察に」  捕まれば、“家族”に連絡が行く。松岡の答えに、遠野はそうすかと興味なさげに応じ、天井に視線をやったまま、しばらく黙って煙を吐き出していた。  「……もう一人ぐらい刺せます?」  不意に、遠野が言った。  「は?」  ついと、視線が今一度こちらに向く。一瞬前のギラつきはない。残念だと松岡は思う。  「行くとこないんなら俺と来ません?衣食住は保障するし、なんなら多分、適当な身分証も。必要なら」  バイトとかできますよと、遠野は肩を竦めた。  「刺せるかっていうのは?」  「ちょっとね、追いかけられてんすよ、俺。んで、多分向こうは殺すつもりなんだと思うんだけど、俺弱いから。それで、死にたくないから、用心棒?的な」  殺せっていうんじゃないんで、と付け加えて遠野は煙草の灰をシンクにとんと落とした。  「……そんな本気のとじゃ、全然勝負になんないと思うけど」  「人の殴り方知ってんなら、多分俺一人よりはマシ。あとあんたにとって朗報」  遠野は、つまんだ煙草の先を松岡に向け、やはり無感動に告げた。  「あいつらに殺されたら、身元不明死体で終われる」  警察に引き渡される心配もないすよ。ふうんと応じた。なるほどそれは、悪くない気がした。  実際にはまだ追いつかれたことはない、というのが遠野の話だった。半年ほど前までとある詐欺グループで活動していたが、そこを抜けてきたのだと言う。  「知り合いが一人引っ張られて、そっから芋づる式でグループ全体ほぼ壊滅。ニュースになってんの見ませんでした?俺んとこはそいつとは別のグループでやってたんでとりあえず大丈夫だったんだけど、捕まりゃ上はトカゲのしっぽ切りで我関せず。守ってくれるわけじゃないから、結局集団でやるデメリットのほうがでかいと思って」  リスク回避で出てきたというのが遠野の説明だった。そして、本来ならば、末端の人間一人やめていくことはそれほど大きな問題にはならないのだそうだ。上部組織がどこかも知らないような末端のチンピラ一人、放っておかれるのが普通。  「じゃあ、あんたの状況は普通じゃないんだ」  そう、と頷いて遠野は足を止めた。数メートルほどの長さの横断歩道。歩行者信号は赤。遠野に合わせて立ち止まった松岡の隣を、サラリーマンが足早に過ぎ、赤信号を渡っていった。動き出す車の列を見るともなしに眺めながら、信号は守るタイプ、と遠野という人物についての情報をまた一つ更新して、わずかに高い位置にある男の横顔を盗み見たが、そこにはもう、朝方感じた威圧感も演じられた好青年の面影もなく、どこかぼんやりとしており、人ごみの中の有象無象の一人でしかなかった。これも演技なら、やはりこの男は大した役者だ。  衣食住の担保を得たことが精神に与えた作用は多大で、遠野の申し出を了承した後、話の途中で急激な眠気に襲われた松岡は、一言の断わりもなく意識を手放し、目が覚めた時には、窓の外は夕暮れだった。微睡から醒めた一瞬、知らない部屋の風景にここはどこだと身を固くしたが、畳に頬がこすれる感触、肩にかけられたパーカーから立つ他人の匂い、部屋の隅でラジオのニュースに聞き耳を立てる人影と順に認識してようやく、松岡の脳は覚醒し、体の緊張を解いて伸びをした。傍らに置いた松岡のナイフを爪先で擦りながら、あんたの父親のニュースはなかったと暗がりから言ってよこした遠野に時間を問うて、十七時半という答えを聞き、今日は一日何も食べていないと思った瞬間に腹の虫が鳴き出し、それを聞いた遠野が少し笑い、頬に畳の跡をつけて起き上がった松岡の胸にナイフを押し付けるようにして、返すと呟いたのが十五分ほど前。中華で良ければ一緒にどうぞとナイフを持った松岡に背を向けた遠野は、危機感がないのか大物なのかもう完全に警戒を解いていて、今刺すつもりなら造作はないとその背中を目で追ってみたが、遠野にしてみれば松岡の挙動などすでに興味の埒外のようで、少し足を早めて真後ろに立ってみても、距離、と睨めつけられることはなく、来たときよりも近い距離感で駅まで戻ってきて今、だった。  信号が青に変わると同時に、周囲の人波が動きだし、その波に乗って遠野が歩き出す。そのまましばらく、松岡は話の続きを待って黙っていたが、遠野が口を開く気配はなく、ここまで歩く道すがらの会話は、ここでは一旦、終わりのようだった。  無言の遠野についてもう五分ほど人混みを歩き、入ったのは全国チェーンの中華料理屋で、明るく広い店内はそれなりに込み合って賑々しく、お好きな席へどうぞーという間延びした声を聞きながら、遠野は迷うことなく店内隅の二人席に掛けた。座ってみれば、そこからは店の入り口がよく見えて、すぐ脇に非常扉のある特等席だった。  「何でもどうぞ」  席についてすぐ、遠野が押して寄越したメニューには一杯四百円しないラーメンやらチャーハンやらが並んでおり、赤や黄色がうるさいチープなメニュー表はあまりにも日常で、松岡の脳はまた少し空っぽになり、ラーメンやチャーハンや餃子の写真が目の前をぐるぐる躍り出したが、いらっしゃいませの声と同時にメニューの上に置かれた水が少しこぼれて指に触れ、その冷たさに、松岡ははっと我に帰った。  「ギョーザと、生ひとつ」  水を置いた店員に向かって遠野が言い、彫りの深い顔立ちの店員がたどたどしい日本語でギョーザと生ねと呟きながら慣れた様子でハンディに注文を打ち込み、アナタは?とこちらを向いたので、とりあえず目についた麻婆豆腐とラーメンセットを頼み、ご飯、五十円でチャーハンなるけど、どう?と問われ、咄嗟にじゃあそれでと応じると、チャーハンセットねと言いながら彼はすぐに次のテーブルに行ってしまった。向かいに座った遠野が、道すがら買った赤マルの封を開け出し、松岡がテーブルの端の灰皿を渡してやると、どうもと少し笑って言った。  「……で、普通じゃない理由は?」  近くのテーブルに座っているのがカップルと大学生だということを一応確認して、松岡は口を開く。大学生のテーブルには、ちょうど食事が到着したところで、食器類がぶつかる音がカチャカチャと鳴っていた。松岡の問いに、遠野は別段溜めもなく応じた。  「俺ね、記憶力いんすよ」  次の言葉を待ち、松岡はうんと軽く頷いたが、遠野はそのまま黙ってしまい、松岡はそれで?と続きを促した。遠野は一瞬、視線を天井にさ迷わせて考えるそぶりをした後で、灰皿に煙草を置き、目を閉じた。  「右隣の席の大学生。俺の隣の列の一番奥から、頼んだメニューはチャーシュー麺、かた焼きそば、天津飯。あんたの列の方は、奥から回鍋肉定食、醤油ラーメン。喫煙者が二人、かた焼きそばがマイセンで天津飯がピース。マイセンのライターは…ホテルのかな。白地に金文字でロゴが入ってる。文字までは読めなかった。視力は普通なもんで。ピースの方は猫柄のジッポ。他に聞きたいことは?」  「……靴の色」  「……テーブルの影で、奥の二人はちょっと怪しい、けど…手前のピースは革靴。濃茶でシンプルなやつ。その奥が、紺か黒のスニーカー。ブランドなしかな?ロゴは見えない。その奥がサンダル。黒っぽく見えたけど。回鍋肉もスニーカーで、白地に…多分紺と赤のライン。その手前は紺の偽クロックス。赤い丸いアクセサリーがついてる」  大当たり、と松岡は呟き、彼らの足元を凝視していたことに気づいて視線を前に戻すと、遠野は既に目を開いており、タバコを咥え直すところだった。  「瞬間記憶みたいなもんで、一回見たもんは忘れないんすよ」  目が合うと、間抜け面だなと遠野は笑い、人差し指で自身の目の辺りをとんとんと示した。  「写真みたいなイメージすね。思い出すっていうより、写真を見返す、みたいな感じ。視覚情報に限るんで、会話の内容なんかの記憶は人並みすけど、メモは見たら忘れないんで。まあだから、本の丸暗記とか得意っすよ。……あと、人の顔覚えるのも」  なるほどと松岡は思う。これで、ちゃちな変装が一発でバレたことにも合点がいった。  「子供のころにテレビでスパイの番組やってて、変装を見破るには耳の形を確認すればいいって言ってたんすけど、これが結構マジな話で。でも本職じゃないから、絶対間違えたくないときは一応、耳ともう一つ目印作っとくんだけど」  あんたの場合は、左耳の後ろのほくろと遠野は言い、エロいとこにあんなと思ってと肩をすくめた。松岡は思わず耳の後ろに指先を触れたが、生まれてから今までの二十三年間、自分すら気づくことのなかったほくろは、触れているのかどうかも分からないほどの存在感だった。  「……パーカーはないけど、あのほくろはちょっと吸血鬼っぽかった」  「……吸血鬼の基準、おかしいんじゃないの」  あの状況で吸血鬼と言い訳するやつの方がよほどおかしいと遠野が言い、それはごもっともと松岡が応じたところでビールが届き、間髪いれずに餃子と定食がテーブルに乗り、それぞれに食事をする間、会話はしばし中断された。どんな状況でも腹は減るし、腹が減ればなんでも旨い。遠野がビールを二杯と餃子一皿を食べ終える間に、松岡はラーメンと麻婆豆腐と半チャーハンをきれいに平らげ、ごちそうさまでしたと手を合わせた。その後の遠野は、アルコールのせいか少しハイで、よく笑った。  二千円に欠ける会計を済ませた後、銭湯に行くと言い出した男に連れられて、松岡は夜が始まったばかりの街を歩いた。昨日からの非日常で曜日感覚が抜けていたが、よくよく思い返せば今日は金曜で、日常に閉じ込められた人々が束の間の自由を享受せんと早足に行き交う町並みは活気に満ちており、一足先にネジを一本飛ばしたらしい遠野のご機嫌な足取りに誘われて、松岡自身、アルコールなどなくとも今にも笑い出したいような気分だった。  「顧客データというか、俺らがやってたのはクレカのデータ抜き取りで、そのデータをお客様に流す仕事だったんだけど、その受け取り先の一覧が、あったんすよ。そんなの本当は俺らの目に触れるはずはなかったんだけど、あの人らに俺の特技がばれる前、俺がまだあそこに入ったばっかの時で、確か結構でかい仕事の後だったとかでちょっと気が緩んでたのかも。それで、たまたま、ちらっと目に入って」  遠野の語り口は弾むようで、流れるように紡がれる言葉を松岡は歌でも聴くように聞いた。  「でも別に、あの人らの仕事の邪魔をしようなんて考えてないんだから、俺のことなんて気にしなくていいのに」  遠野の今の取引相手はその顧客リストの中の一つで、遠野の“特技”を面白がって乗ってくれた相手だが、遠野自身にはコンピュータの知識があるわけではなく、記憶力を生かして郵便局やコンビニやらでアナログに情報を盗み見るのがせいぜいのため、個人で収集できるデータ量はグループで集められるデータ量とは比較にならず、別段あちらの売り上げに影響はないのだという。それでも追い回されるのは恐らく、もっと上の意向で、信用問題に関わるからだろうというのがだから、遠野の見立てだった。  「あの人らにとって一番問題なのは、絶対に漏れちゃいけないデータが俺を通して漏れるんじゃないかってことなんすよ。あの界隈じゃ、一度でも秘密を漏らせば信用はなくなって、建て直しは無理。だから、疑わしきは罰せよで、とりあえず俺を消そうってことになってんでしょうね……まあでも正直、理由なんてなんて別になんだっていいんすよ。戻るって選択肢がない以上、向こうは消したい、こっちは生きたいで平行線。逃げるっきゃないんだから」  そこまで一息に話したあと、ほんの少しの間を開けて、金がいるんすよと遠野は呟き、その呟きの切実さに松岡ははっとしたのだが、前を歩く背中は先程と変わらず少し猫背で足取り軽やかだった。  木を隠すなら森っていうでしょと言う遠野に導かれるまま、人通りの多い道を選んで通るせいで大分遠回りになったが、たどり着いたのは駅からも程近い、松岡も見覚えのあるスーパー銭湯で、食堂や広い駐車場を完備した田舎の銭湯は老若男女で賑わっていた。ロビーを駆け回る子供たちを何人かやり過ごしてフロントに向かい、大人二人、と入館料の支払いを済ませた遠野は、数字の入ったロッカーキー一つとレンタルのタオルセットを松岡に差し出した。  「一時間後に大広間。飲み食いはロッカー番号で可」  フロント横の案内板を視線で示してそれだけ告げると、遠野はじゃあと一言残して去り、松岡一人、その場に取り残された。そうして陽気の原動力と離れて初めて、松岡の空っぽの頭も少しは動きだし、この銭湯は自身の行動圏内であることに思い至り、知り合いでもいないかと周囲を見回してみたが、少なくとも目の届く範囲に見知った顔はなく、一応の安堵感に一息ついた、その時。  「わあっ」  声と、何かがぶつかるどんという衝撃につられて足元を見おろすと、先程から走り回っていた小さな男の子が転がっており、心底驚いたという表情でこちらを見上げていた。  「大丈夫?」  「ハルキ!」  手を伸ばして屈み込んだ松岡の声に、よく通る元気のいい声が重なる。転んだ男の子はパッと声の方を向き、お姉ちゃん、と呼びかけに応じた。松岡の手は行き場をなくし、屈み込んだ姿勢のまま男の子の視線を追うと、小学校低学年くらいだろうか、ツインテールの女の子が駆け寄ってくるところだった。お姉ちゃんは小さいなりにもお姉ちゃんで、松岡の目の前で弟を助け起こすと、母親の真似だろうか、弟の服を小さな手で何度か払って、痛くしてない?と問いかけた。うんとうなづいた弟によかったねぇと笑いかけ、その後松岡と目が合い、あっと小さく声をあげた。  「…えっと…ぶつかっちゃってごめんなさい」  小さな姉は弟の代わりに松岡に向かって謝ったが、松岡が何か答える間も無く、弟に行くよと声をかけ、すぐに身を翻して駆け出してゆき、まってようと声をあげた弟も慌ててそれを追って駆け出し、不恰好に手を差し出したまま松岡は一人取り残された。振り返らずに走り去る小さな背中二つを目で追いながら、ふと、夢中で姉を追う彼の中にも、あれほど小さくても既に姉として弟を守ろうとする少女の中にももう、自分という存在は無いのだと考え、そう考えたところで唐突に、腹の底から震えが上った。  「……っ、」  吐き気を伴う不快感に、口許を押さえて背中を丸める。思い出した。松岡は以前、この銭湯に家族で来たことがあった。ずっと昔。もしかすると、あの兄弟と同じくらいの年頃だったかもしれない。  幼い頃、給料日になると父はいつも食玩を買って帰ってきた。チョコレートでできた卵のなかに、小さなカプセルが入っているその菓子を気に入っていたのは子供たちよりもむしろ父の方だったのだと思う。それでも、松岡も姉もその日を心待ちにしていたのはただ、父が楽しげなのが嬉しかったからだ。鳥や昆虫のフィギュアを取り出して父に見せると、普段あまり笑わない父がほんの少しの笑顔を見せて頭を撫でてくれる。それだけのことが本当に嬉しかった。割に子煩悩な父は子供達に何かしてやることが好きで、だから、ここに来たのも多分、父の提案だったのだろう。家族四人で訪れて、ここの食堂で食事をした。外食はほとんどしなかったから、風呂よりもそちらの方が印象深く、ビール片手にご機嫌の父と、いつも通りの仏頂面の母のコントラストがその日は妙に愉快で、幼い松岡は姉と脇腹を小突き合ってこっそり笑った。  口下手で学もなかったが、楽しいことを教えてくれるのも、間違ったことをすればぶん殴って正してくれるのも、全部父だった。母が家を出る前から、父は母よりもずっと親らしかったし、松岡も、そして恐らく姉も、父のことが大好きだった。  「……あの、どうかされましたか?」  もやの向こうから声がする。反射的に顔を上げると、自分に向けられる一対の視線と目が合い、大丈夫ですか?と動く唇があり、少し先のつぶれた丸鼻があり、その断片のそれぞれが一つにまとまるまでに数秒。現れたのは、不安げに眉を寄せた中年女性の顔だった。首もとにはスタッフ証が下がっており、その背後の人々が遠巻きに自分に向ける視線に気づき、このままでは目立つと考えた途端に吐き気は引き、何でもないですと応じて立ち上がった時にはもう、一瞬前に溢れ出した“幸せな家族”の記憶は元どおりに頭蓋の洞に仕舞われ、松岡の意識は今に引き戻された。松岡が立ち上がった後もスタッフ証の女性はまだこちらを窺っており、ほんとに大丈夫ですと軽く頭を下げると、彼女はようやく、ほっとしたように微笑んだ。面倒事は誰だってごめんだ。無駄に関わり合いになりたくないのはお互い様。そうして松岡が一歩を踏み出す頃にはもう、周囲からの視線も一切消えており、風呂は止めておこうととりあえずはそれだけ考え、途中、品揃えの悪い売店で百円ガム一つを購入して、そのまま、待ち合わせの大広間に向かった。大広間は畳張りのだだっ広い空間で、詰めれば六人は座れそうな四角いテーブルが等間隔に並んでおり、部屋の一番奥にはかなり大きなテレビが置かれ夜のニュースを流していたが、室内の賑やかさに押され、音声は一向に耳に入る気配もなかった。よくよく見れば、ぼんやりと客の住み分けができているようで、テレビ付近、部屋の前方のテーブルについているのはビール片手の一人客が多く、入り口付近では家族連れや学生たちが目立った。テーブルの空き自体はそれなりにあり、松岡はとりあえず、客層の分かれ目付近の一番隅のテーブルに陣取り、ガムをくちゃくちゃやりながらテレビを見て時間を潰した。遠野の言うとおり、父のことは何のニュースにもなっていなかった。  「……調子悪い?」  突然、背後からひょいと覗き込まれて心臓が跳ねた。幸いなことに、声をあげたりはしなかった。至近距離で見ると、遠野は割合整った顔をしており、綺麗で無機質な男が纏う空気はどこか冷たく、風呂上がりの身体が発するふわふわとした熱も、シャンプーだかボディソープだかの甘い香りも、ひどくアンバランスだった。  「……いや、別に。普通」  ドキドキいう驚きの余韻を飲み下し、平静を装って応じると、遠野はそっすかと肩をすくめ、綺麗に畳まれたままテーブルに置かれたタオル類、その横の食い散らかしたガムのゴミへと視線を流し、何すかそれと唇の端で笑った。  「ここ禁煙だから」  「なるほど」  遠野は首に下げていたバスタオルを無造作にテーブルに置きながら、コーヒー牛乳飲みます?と問い、松岡がいいと応じると、じゃあちょっと待っててと一度も座らぬまま、またどこかへ行ってしまった。離れて行く背中を眺めながら一瞬、子供に混じってコーヒー牛乳を買う遠野の姿を夢想して、松岡は笑った。遠野の姿が見えなくなり、これといって考えることもやることもなくなった松岡が再度、いつしかBGMになっていたテレビの音声に意識を向けると、最初に見ていたニュース番組は十九時半で終わっており、次の特集番組に移っていた。  『……第二性の存在が確認されてから三十余年が経ちますが、今になってこういった混成家族の問題が表面化しているのは何故なのでしょうか』  女性キャスターの質問に、壮年の研究者が応じる。  『特に日本では、ドメスティックな問題は隠される傾向にあります。DVや児童虐待の問題も、政府統計ではごく少数と認知されていたものが、メディアで取り上げられるようになったことで統計上は年々増加傾向です。これは実質数が増えたと考えるよりも、認知度が上がったことにより相談する土壌が出来てきたと考える方が妥当でしょう。そういう意味では、第二性問題も、十年前の“松本新事件”が契機となり、Ω性に関連する悲惨な現状が明るみにされた事を通して認知度が向上したことにより表面化してきたとみることができると思います』  『なるほど。……兄弟・姉妹間の性的虐待事件と第二性が強く結び付いた事件として“松本新事件”が社会に与えた影響は確かに大きかったと感じています。この事件に関連して世論を騒がせたのは、Ω性のヒートとそれに付随してα性を持つものが反応するという機構の“本能性”についてでしたね』  『はい。“松本新事件”は被害者となった松本受刑者の姉は関係を拒否していたにも関わらずむりやり関係を続けていたという点で、松本新受刑者が加害者であることは間違いありません。ただ、松本受刑者が番ってしまったのは、二人で家に在宅中に姉がヒートを迎えてしまったことによる事故であるという見方もあります。だからといって彼の行為は到底許されるものではありませんが……。しかし、現段階では第二性は、Ω性はヒートの発現をもって、α性はヒートへの反応性をもってしか確認ができない状況です。社会的にオープンな場では、突発的なヒートの際の対応マニュアルの整備が進んでおり、第二性出現当初のような混乱はほとんど起こり得ないと言って差し支えないと思います。しかし、そういった外の目が届かない家庭内という密室で、不運にもヒートが生じ、両性が出会ってしまった場合の対応マニュアルは存在しません。こういった事故を防ぐための対策は“松本新事件”以後様々に提案されていますが、現状を見れば、どれも奏効しているとは言い難い状況です。原因遺伝子の解明が危急の課題と言えますが、第二性は多因子遺伝と見られており、完全に同定するにはまだ時間を要すると考えられます』  「……はい」  今度は足音で気がついていた。戻ってきた遠野が隣に座り、松岡の前にボトル入りのガムと小さなペットボトルのホットレモネードを置いた。そうしておいて、自分は瓶入りのコーヒー牛乳のフィルムを捲り、紙の蓋を開けにくそうに引っ掻き出した。  「これは?」  紙蓋と格闘する遠野の方を向いて声をかけると、口寂しんでしょと答えが返ってきた。  「ガムは、どうも。こっちは?」  「ジュース?嫌いじゃなきゃどうぞ……妹が好きなんすよ、それ」  かりかりと蓋を引っ掻き続けながら遠野は言い、俺は酸っぱいの無理なんで、飲まないなら処分して下さいねと続けた。飲めないものばかりだと松岡は思い、じゃあいただきますと熱すぎるほどに暖まったペットボトルの封を開けた。  「……妹、いんだ」  「もう何年も会ってないすけどね」  「何歳違い?」  「年子」  「……可愛い?」  「妹が?……どうだろ。可愛いってのはちょっと違う気がするけど。……大事、かな」  大事、と松岡が呟くと、隣ではようやく蓋が剥けたらしい遠野が、よしと声を上げた。  「……あれもだから、不運な話だと思うんすよね」  ごくりと一口目を飲み下し、遠野はそう呟いた。視線の先にはテレビがあり、先程まで松岡が見ていた特番の続きが流れていた。  『……この事件は、α性の松本受刑者の子を身籠ったΩ性の姉の自殺によって露呈し、その後、松本受刑者とΩ性の近親者の間の合意のない性的関係が次々発覚したものでした。研究者の間では周知であったΩ家系の存在も、この事件を通して世間に浸透し……』   不運。  「……誰が?」  「誰って?」  「不運なのは誰なんかなって」  この物語の悪役は誰だろう?誰が、この家族を壊したんだろう?  「そりゃ家族みんなでしょ」  さも当然であるかのように遠野は言い、松岡はその答えに少し驚いて遠野を向いた。  『……政府の統計では、全人口の99%以上がβ性でΩ性とα性は合わせて1%にも満たないと言われています。決して少なくはない数字ですが、両性が同一家族内に出現する確率は高くはなく……』 「…百人に一人の確率が、たまたま同じ家族の中に出たってだけでも不運なのに、それがまさか二人きりの時にヒートが来て、止められなかったって後悔してる親も不運。本人らも、多分訳わかんないうちに番になっちゃって、後悔したって戻らないから、姉に欲情しちゃう弟も不運だし、死ぬまで弟を誘っちゃう姉も不運。みんな不運で、同じくらい不幸だったんじゃないすかね。……まぁこの人の場合、他の人にも手出してるから根本的にヤバいやつだったんだとは思うけど」  そういう意味ではこのお姉さんに同情はしますねと遠野は言い、半分ほど飲み終えたコーヒー牛乳に甘すぎると文句をつけた。  結局、銭湯を出たのは午後九時を回った頃だった。三十分の特番のあと、今度は八時のニュースが始まり、遠野は多分それを見ていた。その隣で松岡も同じ画面を見てはいたが、それは字義通り“見て”いただけで、内容は何一つ頭に入っておらず、様々に切り替わる映像を眺めながら松岡はひたすら遠野の言葉を反芻していた。不運。家族全員が不運。そうであれば、そこに悪役はいないのか、云々。ただ、いくら考えるのが苦手と言っても、今日はそれが輪をかけて酷く、思考の断片を拾い集めてまとめようとしても、頭の中に鉛でも詰め込まれたかのような重さで上手く纏まらず、拾ったはずの欠片も数分毎に指の隙間からこぼれ落ちるような始末で、一時間もそうしていた割りには、松岡自身は得るものの何もない時間だった。  急に、帰ると言い出した遠野について銭湯を出ると、外は小雨が降っていた。といってもぱらぱらと降り落ちる程度の雨で傘を差すほどではなく、コンビニでもまだ、傘の販売は始めていないようだった。  「……寒くないすか?」  「いや、別に?」  行きよりもかなり早足で人混みを抜けながら、ちらりとこちらを見て問う遠野の様子が、先程までと少し違う事に松岡も気づいてはいて、何かあったのかと思いはしたが、短い付き合いの中でもこれまでずっと、遠野は必要なことは伝えてきてくれていたし、少なくとも自分よりは頭も回りそうだと思うから、遠野が説明しないなら兎に角、この男の言う通りに動けばいいと特に尋ねはしなかった。何も説明がなくとも、遠野が何か急いでいることは確かなようで、行きはあれほど執拗に人混みを通りたがって遠回りをしたのが嘘のように、今はひたすら最短ルートを進んでおり、頻繁に人気のない道に入るため、一応用心棒として置いてもらっているのだからと、松岡はその度毎に周囲に目を配りはしたが、特に警戒すべき動きはないまま、駅前の中華料理屋までは行きの半分の所要時間で引き返した。  「……ちょっと、待って」  途中、一度だけ立ち止まった遠野が寄ったのは薬局で、五百ミリリットルの水一本とカップ入りのロックアイス、氷のうを買って店を出てすぐ、再び家に向かって歩みを進めながら、自分は財布から取り出した錠剤ひとつを買ったばかりの水で流し込んだ。  「……具合、悪いの?」  「いや、俺は、平気」  奥歯にものの詰まったような言い方に、どうかしたのかと問いかけたが答えらしい答えはなく、取り合えず早く駅前抜けましょうと遠野は大股で歩き続け、会話をする気のない遠野の背中を追いかけながら、松岡はこの男の不自然の理由を探ろうとしたがどうにも頭の芯がどんよりとして考えるのが億劫で、そこから十分、結局互いに無言で歩いた。  微かな違和感を覚えたのは、最後の角を曲がってアパートが視界に入った時だった。アパートまで、直線距離二百メートル。車二台がギリギリすれ違える程度の幅しかない道の右側に、こちらを向いて停車する黒い乗用車一台。松岡らの向かいから犬を連れてゆっくりと進んでくる老人が一人。遠野はこれまでと変わらない速度で進んでいる。老人が車の脇を抜ける。同時に、運転席の窓が音もなく開く。車は、街灯の光の輪の外に停車しているため、運転席の様子は見えない。足早に歩く遠野と老人がすれ違う。運転席からの距離は十メートル弱。遠野が進む。松岡は思わず、遠野の服の裾を引いた。  「なに」  「……っ!」  振り返った遠野が何か言いかけたとき、運転席から、ゲームでしか見たことのないサプレッサーの銃身が差し出され遠野を向くのがスローモーションのように見え、松岡は反射的に遠野を突き飛ばし、道端に積み上がっていたゴミの中に二人で突っ込み、その背後で、プシュっと空気の抜けるような音が小さく鳴った。男二人が派手に乗り上げたせいでばさばさと崩れたゴミの音に驚いた老人が振り向いたのと、ギュルルと派手な音を上げて車が発進したのがほぼ同時。  「……っ、あんた、怪我は!?」  松岡に乗り掛かられる形でゴミに埋まった遠野は一瞬呆然としていたが、すぐに状況を察知し、松岡の肩をつかんで跳ねるように上半身を起こした。焦りのあまり蒼白な遠野と目が合い、こんな顔もするのかと松岡はその顔に少し見入った。頭の芯がぼうっとする。この感覚は、知っていた。  「……全然、大丈夫」  かすりもしなかったと応じ、松岡はすいと身体を起こす。身体の中心から、ずくりと熱が産まれる。熱い。まずいなと思う。  「……あんたら、大丈夫かい?」  立ち上がった瞬間、立ちくらみに似た感覚に襲われブロック塀に片手をついて身体を支え、無理に笑って振り返り、犬を連れてこちらを窺う老人にちょっと酔っぱらっちゃってとあえて気楽な声で応じたが、その間にも、内奥の熱はじわじわと全身に回っていた。老人の反応を見、この人は大丈夫そうだと判じる。軽く息をついて前方に視線を戻すと、遠野はタイミング最悪だなとイラついた様子で呟いていたが、それは恐らく先程の出来事に対しての言葉であり、遠野自身の様子は少し前までと変わりなく、取り敢えずこの場に危険はないと結論し、松岡は軽く息をついた。  ヒートがくるには、本当は少し早い。いつも通りならあと一週間は猶予があったはずで、だから、油断した。もともとズレの少ない方ではあるのだ。ただ、ここ数ヶ月は確かに少し、不安定なところがあり、頓用の薬も時々使っていた。そもそも、昨夜家に帰ったのは、薬の手持ちがなくなったからで、多分大丈夫だろうとは思いながら、実家に少し残薬があった気がして、明後日の受診までそれで凌ごうと考えたからだった。しかし結局目的は達せず、だから今は、薬がない。  薬がない時の対処法ってどんなだったっけ。確か昔、中学の全校集会でそんな話があったはずだが、まぁなんにしろ鍵のかかる個室は必須と脳内でひとりごち、なんとか気を紛らわそうとしてみたが、一度溜まり出した熱は強まるばかりで収まる気配はなく、理性を覆いつくす勢いで湧き出す本能の禍々しさに松岡は苛立ち、くそったれと小さく呟いた。どくどくと心音が煩い。身体の中の音が、いつもよりも大きく聞こえる。高熱に浮かされたときの感覚に近い。足元が覚束ない。  「……松岡サン、悪いけど、走るんで」  突然耳元で声がして、耳朶に触れた吐息の熱さに、身体が跳ねる。  「っ……と、なんかあった?」  「家の方に誰かいる。ちょっと、腕、掴みますよ」  言った直後に手首をぐっと捕まれ、ひゅっと喉が鳴る。たかがそれだけの事に、全身がぞわりと反応する。触れる。触れられる。怖い。怖いと感じる。それなのに、本能は欲しがっている。喜んでいる。矛盾している。……それが酷く、気持ちが悪い。  腕を引かれて走り出す。遠野は人通りのない狭い路地を選んで進んでいるようだったが、松岡にはもう周囲を気にする余裕はなく、せめて足手まといにならないようにと必死で足を動かした。  「……そこカギ壊れてるんで。入って」  そうしてどのくらい走っただろうか。遠野が松岡を離したのは、かなり大きな資材置き場で、その裏手に位置する小さな錆びた鉄扉は確かに、少し力を込めるとギィと音を立てて開き、薄く開いた隙間から身体を滑り込ませるようにして中に入ると、遠野もすぐにそれを追い、扉をもとのように閉じて更にその奥へと進んだ。巨大な材木がずらりと並んでいる前を過ぎると、その先には小さなプレハブの小屋があり、松岡を小屋の前で待たせて遠野は小屋の裏手に姿を消し、数秒後に戻ったときには小さなカギを手にしており、勝手知ったる様子でプレハブ小屋の扉を開けた。入ってと促されるまま小屋に入ると、そこはちょっとした休憩スペースになっており、部屋の真ん中には四人掛けのテーブルとパイプ椅子四脚、隅にはシンクと火口二つが備え付けられていた。遠野は内側からカギをかけながら、朝七時前までは誰も来ないすよと小声で言った。  「……前にここでちょっと働いてて、そんときに確認したんで」  遠野は扉を一度引いてカギを確認し、ふうと息を吐き出してフローリングの床に直接腰を下ろした。松岡は、カーテンのないガラス窓をちらりと見やり、遠野とは少し離れた場所で、同じように地べたに直接腰を下ろし、膝を抱えて身体を丸めた。  「……多分、あんたも顔見られたんで、一緒に来てもらいます」  すんませんね、俺の不注意でと遠野は言い、今さら何をと松岡が男に視線をやると、遠野は逃げる間も離さずにいた薬局の袋から氷のうやら氷を取り出すところで、真っ暗な部屋の中で手元に視線を落とす男の表情は影になって見えず、何を思っているのかは何一つ読み取れなかった。  「本当はもう少し時間作るべきだったんすけど……このまま、今日明日中にはここ離れます。で、しばらくは戻って来ない」  封を開けた氷のうに、少し溶けかけたカップアイスを入れながら遠野は言い、それは最初に話を了承した時点で分かっていたことで、今更、なにも困らないと松岡は思う。やっぱり甘い。あれだけ話しておいて、こちらが怖気付いたら離すつもりだったのか。脅迫してきた相手に名を名乗った松岡を遠野は律儀だと笑ったが、この男も大概、人が良い。  「……もともとそのつもりだったし」  大丈夫と、続けようとして口を噤む。みっともなく、声が震えていた。  触れ合いから解放されて皮膚のざわつきが治まったように感じたのはほんの一瞬で。一番強い刺激から解放された肉体は、次には細微な刺激も感知しはじめており、肌と服の擦れるざらついた感触、ちくりちくりと首筋を髪が擦れる感覚、どこかから吹き込む冷気が肌を撫でる感覚、ひいては自身の呼気が唇にふれる感覚まで、今はとにかく、ありとあらゆる感覚が鋭敏で、そのどれもが快楽を追って蠢いている。触れられたいと、本能が叫ぶ。ふざけるなと、松岡は唇を噛んだ。そうでもしなければ、おかしな声をあげそうだった。  「……あんた、薬は?」  氷を入れた氷のうに、先程の飲み止しの水を注ぎながら、遠野が言った。  「抑制剤……ま、持ってりゃ飲んでるか」  どうすっかなと、呟いた遠野の、言葉の意味を理解するまでに数秒かかり、直後、松岡は弾かれたように立ち上がり、その拍子にパイプ椅子に身体をぶつけ、椅子が倒れて大きな音をたてた。  「……匂い、っ」  「すっ、げぇすね。しんどそうだ」  壁ギリギリまで下がっても、遠野との距離は二メートルにも満たない。扉は遠野の側にあり、逃げ出すこともできない。座り込んだ姿勢のまま、氷のうの蓋を閉めた遠野がこちらを見上げた。暗闇の中、目が、合う。  ー……涼介、っ、隠れてっ!  姉の背中越しに、父の視線が松岡を向いていた。不器用で優しかった父の面影はそこにはなく、呼気を荒くし、歪んだ表情でこちらを睨む強い視線は、ただひたすらに恐怖でしかなかった。  ー逃げて!早く!  細い腕で父を抑えながら、姉が叫ぶ。怖い。怖くて怖くて仕方がない。何が、とは形容しがたい。そこにあるのは、ひどく本能的な、生理的な恐怖。今まで絶対にここにあると信じてきた地面が、溶けて消えて、無くなってしまうような怖さ。足が動かない。動けない。  揉み合いの最中、一瞬こちらに目を向けた姉は松岡を見て悲しげに瞬き、手近にあった固定電話を掴み上げ、それを父の頭めがけて振り下ろした。ガツンと鈍い音がして父が怯んだ一瞬、普段なら想像もつかないほどの強い力で松岡の腕を引いた姉は、すぐそばのトイレに松岡を突き飛ばし、鍵かけて出てきちゃダメと手短に告げた。姉の手で扉が閉じられる直前、目に入ったのは、額から血を流して立ち上がった父の悲壮な表情と、ごめんと笑った、母そっくりの姉の笑顔だった。  あの日、世界がひっくり返った。何もできない松岡はただ呆然と、壊れゆく世界を眺めていた。これは、俺が壊した、世界。  「……松岡サン」  目がおかしい。呼び掛けても反応のない相手を前に、そう考える。確かにこちらを向いていて、視線は合っている。それなのに、見ていない。こいつは、俺を見ていない。奈落、という言葉がふと浮かんだ。なにも写さない漆黒は、底無しの奈落のようで、遠野はごくりと喉を鳴らした。屍と見つめ合っているようだと思う。眼の玉の抜けた眼窩の虚。生者のそれとは一線を画した、光をすいとる瞳。死んだ目。そのくせ、松岡の喉からは、ゼイゼイと喘息のような呼吸音が聞こえていて、堰を切ったように溢れだす匂いは強まるばかりで、それはもう悲しいほどに生きている。  何となく。何となくではあるが、松岡がΩと知った時、その事情を察した。銭湯のテレビを見たときの反応。多分、同じ。  「……聞こえてっか分かんないけど、話すから聞いてくださいね……」  うちは、妹がΩなんすよ。  奈落がぞろりと、動いた気がした。 両親はβだった。遠野はβの中でもかなり鼻が効く方で、幼い頃から、Ωの匂いを感じていた。ヒート中でなくとも、成熟したΩは常に微かなフェロモンを発していて、体質的に、遠野はそれも嗅ぎとることが出来た。それがΩフェロモンだと知ったのは随分後になってではあったが、香り自体はずっと薫っていて、子供の頃は単に、いい匂いのする人と認識していた。保育園の先生や、小学校の頃に通わされていたそろばん塾の中学生、それから、町ですれ違う人。それが“分かる”遠野にとって、匂いは別段珍しいものではなく、そこにあるのが普通だった。それが普通でないと知ったのは、中学三年の冬。妹の甘い香りを嗅いだ日だった。  世間は年の瀬で、なんとなくそわそわとした空気に満ちていた。遠野の家族も例外ではなく、夕食どきの両親の会話はいつもよりも少し浮ついて聞こえたし、つきっぱなしのテレビから聞こえてくるタレントの声も、数日後に迫ったクリスマスや大晦日の浮き足立った雰囲気に飲まれてどこか陽気で、受験勉強の追い込みで疲労の蓄積した脳は拒絶反応を起こしており、遠野は早く食べて部屋に戻ろうと、掻き込むように食事を口に運んでいた。  ー……ただいまー!  もう少しで食事を終えようというタイミングで、部活を終えた妹の楓が帰宅し、玄関から威勢のいい声が聞こえた。吹奏楽部のコンテストが二月にあるから、今頑張りどころみたいよと、母が先日話していたが、確かに最近、妹の帰りはいつもよりも遅い。  ーお腹すいた!ご飯何? 食事の開始に間に合わずに戻った妹がリビングに飛び込み、母はシチューと笑顔で応じ、楓の食事の準備のために席を立った。  ーシチューならパンがいい  そう言った楓が、パンはー?と声を上げながら、遠野の脇を通過した時、ふわりと、甘い香りがした。ピアノの発表会の時、祖母が差し入れてくれた大きなブーケのような、甘ったるい香り。保育園の先生、そろばん塾の中学生、道ですれ違った大人たち。みんな、少しずつ違ってはいたが、こんな香りをさせていた。甘くて、優しい香り。……昨日までは、楓は“匂いのしない人”だったはずだ。  ー……何その匂い  遠野がこれまでに出会った人たちはいつも、最初からその香りをまとっていて、まさかこんな風に突然、香りが後からし始めることがあるなんて、考えたこともなかった。だから、本当に純粋に、遠野は不思議に思って訊いたのだ。このいい匂いはなんなんだろう。  ー何、匂いって。私変な匂いする?  嫌だな、と楓は言い、すんと自身の袖口を嗅いだ。  ー自分じゃわかんないー。お母さん、私変な匂いするー?  楓はすんすんと袖口を嗅ぎながら母のもとへかけて行き、母は別に何もしないけどと怪訝な顔をし、遠野に向かって言った。  ー変なこと言うのやめなさいよ。女の子なんだから。気にするでしょ。  ー別に、変な匂いなんて言ってない。香水?  ー香水なんてしないよー。禁止だもん。えー?でもなんで?いい匂いする?  いい匂いならいいけど、分かんないなと楓が言い、お母さんも分かんないと、その隣で母が言った。  ーうん、なんか花みたいな匂いするじゃん  一度気がついて仕舞えば、その匂いは、温め直したシチューの香りにも隠れることなく薫っており、楓が帰ってから、室内は花畑のような香りに満ちていた。心地のいい、安心する香り。  ー……笹本さんもいい匂いするんだよな  親の転勤の都合で先日、遠野のクラスに転入してきた女の子。彼女も、“いい匂いのする人”だった。中三の秋というひどく中途半端な時期に転入してきた彼女と話したことはほとんどないが、転入初日、顔をうつ向けて小さな声で自己紹介をした彼女の匂いは、とろりと甘く、食べ頃の桃みたいだった。  遠野の言葉に、両親がピクリと反応した。  ー……樹、  テレビを見ながら食事をしていたはずの父が、いつのまにかこちらを向いていた。  ー匂いって、今までにも嗅いだことあるのか  ーあるよ。時々、そういう匂いさせてる人、いるよね?  ちょっと甘くていい匂い、と遠野は続けたが父の同意は得られなかった。黙り込んだ父に困って台所に目を転じると、母は大きく目を見開いてこちらを見ており、遠野と目が合うと、なぜか慌てたように楓を背中側に隠した。あの頃はまだ、母よりも小さかった楓の身体は、母の影になって、遠野からはすっかりみえなくなった。  これは後になって知ったのだが、笹本の転校は、以前通っていた学校で突然ヒートになったことが理由だったのだそうだ。もちろんそのことは他の保護者には伏せられていたが、人の口に戸は立てられず、両親はそれを知っていた。  劇的な変化があったわけではない。ただ、この場所から逃げ出したいと思うには十分な違和感が、家族の内に常に付きまとうようになり、何気ない日常に付随する不信や猜疑が、遠野を家族から遠ざけた。  「……って言っても、うちは別に何もなかった。何もなくてもなんか変だった。だから、逃げ出した」  気持ち悪かったんすよね。遠野が告げると、松岡は確かに光の戻った瞳でこちらを見返した。  時おり窺うように自分を見る両親も、それまでと何も変わらず白々しく振る舞う妹も、そして、こんな風に産まれた自分自身も。全部が気持ち悪かった。それでも、家族は一緒にいるのが自然だと、多分家族全員が思っていて、だからそれぞれ皆、普通でいようと必死だった。必死で、家族の形を保っていた。その努力はそれなりに上手くいっていて、端から見れば十分以上に、出来すぎた家族だっただろう。医者家系の長男で大学病院で内科医をしている父、笑顔が素敵で町内会活動にも積極的な専業主婦の母、T大進学率が国内屈指の名門私立高校に通う兄と、自由で無邪気で愛らしい妹。一人一人がそのように振る舞い、自分すらも欺いて、何とか家族で居続けた。しかし、その歪に最初に音をあげたのは、他ならぬ自分だった。  高校二年の夏、人生で初めて、Ωのヒートに遭遇した。五限目の授業中。昼過ぎの気だるい空気が漂う教室で、その匂いに反応したのは遠野一人だった。匂い自体は、何度か嗅いだ記憶があった。廊下ですれ違ったことのある、一年の女子。中体連では百メートル走全国常連だったようで、遠野の学年でも話題になっていた彼女の、青リンゴのような爽やかな香り。その香りが、ここ数日強まっていることには気づいていた。が、ここまでの強さは初めてで、学年毎にフロアが違うにも関わらず、香りは遠野の鼻にまで届き、ほとんど暴力のように遠野を襲った。ざわりと肌が泡立ち、身体が熱くなる。何が起きたかを理解する前に、身体が反応する。一瞬で、苦しいほどに膨れ上がった欲が、快に向かって走り出す感覚。止まらない。止められない。脳が痺れるような快に隣接するのは、外力によって臓腑をかき回され、内奥に眠る不浄を引きずり出されるような、不快感。机に突っ伏して寝た振りをしながら、血が出るほどに唇を噛み締めて匂いが去るのを待つ間、遠野の胸にあったのは恐怖だった。彼女のことは何も知らない。この青リンゴの香り以外、何も知らない。それなのに、気持ちは何一つなくても、こんな風になる。両親が自分に向ける視線の意味を、その時、遠野は初めて理解した。俺は、傷つける側なのだ。意図するとしないとに関わらず、自分は、そういう風に産まれついた。  それからはもう、毎日が恐ろしかった。猜疑、不信、ブーケの香り。両親、妹、自分。信じられるものは何もない。間違っている。自分が、ここにいることが、間違っている。いつか、壊してしまう。いつか、傷つけてしまう。それは明日かもしれないし、十年後かもしれないし、一秒後かもしれない。だから、その恐怖から逃れるにはもう、逃げるしかなかった。  「……似てるんすよね、あんたの匂い」  震える松岡の姿を目に写し、遠野は呟いた。プレハブに充満する松岡の香りは、どこか、楓に似ている。華やかな、ブーケの香り。  松岡がΩだと確信を持ったのは、銭湯でだった。それまでは気がつかなかった。最初に会ったときは血の匂いが、次に会ったときにはタバコの匂いが、その匂いを覆い隠していた。……いや、本当は。本当は、気がついていたのかもしれない。  「だから、何」  だからなんだと、松岡は問う。だから……だから、なんだろう。楓に似た匂いをしたこの男を手元に置きたいと思ったのは、なぜだろう。  「……嬉しかったのかも」  ふわふわと甘ったるい香り。ひどく魅力的で、ひどく脆い。俺が、壊すかもしれない香り。俺が、捨てた香り。  煽られない訳ではない。意思に反して引きずり出される、欲の感覚。遠野の中のαが呻いている。獣の唸りが、身体の奥から沸き上がる。それでも、それ以上に。この男の不幸を、どうにかしてやりたいと思った。  「……俺ね、普通のαよりちょっと敏感なんすよ。だから嗅ぎなれてる分、耐性は強いんで」  なんもしません、と遠野は松岡の目を見て告げた。信じて欲しい。この男には、不信も猜疑も、向けられたくはない。俺に、俺を、信じさせて欲しい。  「……さっき、飲んでた薬」  松岡がぼそりと口を開いた。その言葉は唐突で、何のことを言っているのか分からず遠野は一瞬口を噤んだが、直後にはああと合点がいった。  「あれは病院でもらえる吐き気止め。これ飲むと、鼻、ちょっと鈍るんすよ」  答えながら、遠野は松岡の様子をざっと確認した。生理的なものであろう震えは続いている。立っているのも辛そうで、体を壁に預けるようにしてなんとか立位を保っている状態だ。匂いも強いまま。ただ、目には力が戻っており、呼吸もやや荒くはあるが正常。  「……これ」  遠野は、先程準備した氷のうを松岡の足元に放った。  「首冷やすとちょっとマシって、妹が言ってたんで」  とりあえず座ったらと声をかけると、松岡はおとなしく従い、俯いたまま氷のうで首の辺りを冷やし始めた。不安も、恐怖も、消えてはいない。それでも、松岡が自分の言葉を信じたことに安堵して、遠野はほっと息をついた。  「……妹って、」  とりあえず松岡が落ち着いたことを確認し、さてここからどうするかと遠野が頭を回しはじめたタイミングで、松岡が口を開いた。  「妹って、今どうしてんの」  「入院中。Ωは関係ないすよ。普通の、病気」  「……連絡とか」  「は、取れないすよね。こんな状況だし……まあこうなる前も含めてもう十年くらい連絡とってないから、この状況だからってのは言い訳か……結局、逃げたんすよ」  妹がΩだったから。家族が信じてくれないから。そうやって、周りの責任にして、逃げた。そんな風に逃げ出しておいて、今さら。取り返しがつかないところまで行って初めて、“家族のために”と言い訳をしながら、こんなところにいる。金がいる。妹のために。妹を救うために。そのためならなんだって出来る。自己欺瞞も甚だしい。これも結局、自分のための、自分が許されるための贖罪だった。  遠野の答えを聞いた松岡は特に何も答えずそのまま黙り、すばらくするとまた、膝を抱えて丸まった。その様子を見、とりあえずは大丈夫そうだと判じた遠野は、この場所を離れるための算段を始める。喫緊の問題は松岡だった。どこにαがいるか分からない以上、この状態の松岡を人と出会う可能性のある場所に連れ出すことはできない。とはいえ、あいつらにここまで近づかれた以上、徒歩で逃げるというのは非現実的だ。抑制剤はない。吐き気どめの効果に気づいて以来薬は常備しているため、財布の中にあと何錠かはあるのだが、Ωフェロモンの放出にも効果があるかは分からない。更に先のことを考えると、これから松岡と行動を共にするとすると、抑制剤の処方を受けるためにΩの身分証を確保する必要がある。しかも、定期的に名前を変えるとなると、それは可能なのか。αに関しては統計上の抜けがあるが、Ωは薬の服用が必須の都合上、政府統計もかなり正確に取られていて、実在しないΩの身分証をいくつもとっかえひっかえすることは多分難しい。  「……邪魔んなるなら置いてけば」  考え込む遠野の横で松岡が言い、声につられてそちらを向くと、膝を抱えたまま、上目にこちらを窺う松岡と目があった。  「……置いてかれたら、あんたどうすんの?」  「分かんないけど」  「……用心棒なんだから、知らないとこで死なれても意味ないんで」  せめて盾くらいにはなってもらわないとと遠野が言うと、確かにそうかと松岡は呟いた。置いて行くつもりはない。  「……匂いが、分からなくなればいいんだろ」  とりあえず一回吐き気止めを試すかと遠野が財布を探りはじめたところで、松岡が口を開いた。暗すぎて手元が見えず、薬を探すのに手間取り、遠野は手元に集中したまま応じる。  「何か方法あります?抑制剤ないんすよ」  「……あんたが噛めばいんじゃない?」  「は?」  突拍子もない申し出に、遠野は思わず手を止め、松岡を見やった。  「番うと、他のαには匂い感じられなくなんじゃなかったっけ?」  そう、そういう機構だ。間違ってはいない。  「……いや、でも……」  「細かいとこ良く分かんないけど匂いは消せるし……ああ、それとも相手いる?……いやでも緊急事態だし、許してくれんじゃない?αは一人としか番えない訳じゃなかったよな、確か」  ふわふわと甘い、花のような香りをさせながら淡々と紡がれる松岡の言葉に、混乱する。状況だけ考えれば、悪くないアイデアではある。そうなってしまえば、すぐにでもここを離れられるし、身分証の問題も解決する。確かにそれはそう、だが。  「ていうか、あんた分かってます?Ωが番える相手は一人すよ」  倫理の問題だと、遠野は思う。そういう都合で、どうこうして良い話ではない。多分。それに第一、その話は、遠野が松岡の匂いに耐えられることを前提にしている。番った相手に対しては、フェロモンは変わらず有効なはずだ。一説には、特定の相手に対してはむしろ強まるという話もある。  「それは知ってる。それでも俺に不都合はないから言ってる。別に……寝て欲しいって言ってるわけじゃないし、あんたに相手がいても大丈夫。とりあえず、ここを離れるのにはそれがいいんじゃないのって話」  あとはあんた次第と松岡は締めくくり、言い終えるとそのまま、再度顔を俯けた。唐突な申し出の真意を測りかね、遠野は男に視線を送り続けたが、つむじを眺めていても、松岡の考えなど分かるはずもなかった。  相手。相手はいない。別に。こんな生活で、そんな相手を作る余裕はないし、もともと淡白だから、特に困ったことはなかった。時々そんな気分になっても、金さえ出せばどうとでもなる。それにもともと、誰かと一緒に居続けることはあまり得意ではない。  番の詳細は、遠野も正確に説明できる自信がなかった。分かっているのは、番になることで、Ωフェロモンの効果が特定のαに対してのみになるということ。αの側は、他のΩフェロモンの感受性がごく僅かに鈍るが、ゼロにはならないということ。番になった相手との身体接触と体液の交換によって、Ωのヒートを収めることが出来るということ。  テレビやら本やらからから得た知識を引っ張り出してみたが、情報があまりにも不足している。……そして、それ以前に。  「……怖く、ないんすか」  ため息に乗せて、遠野は松岡のつむじに問いかけた。怖くはないのか。噛まれることが。それから、こんな、動物的な絆を結ぶことが。遠野は、遠野自身は、それがとても怖かった。  「……怖いよ」  怖いに決まってんだろと松岡は低く続けた。  「……ヒートんなると……触られたいと思う。誰でもいいから触ってくれよって……すっごい嫌なのに、でも、誰でもいいから触って、楽にしてくれって、そうも思う」  俺は、自分が怖いと松岡は言い、するりと顔を上げた。  「だから、この衝動の対象があんた一人になるんだったら、その方がいいなって、思って」  暗闇になれた目が松岡を映す。色の白い全身が、薄く、赤く、染まっている。目元も、赤く蕩けて、苦しげに薄く開かれた唇も、内から透ける緋色が目を引いた。久々の感覚が、遠野を襲う。欲。どろりと引きずり出される欲が、視界を霞ませる。影響を、受けないわけではない。我慢できる。人よりも少しだけ、我慢が効くというだけ。  くそったれと思う。結局、煽られている。大丈夫だなんて強がりを言って、本当は、触りたい。触りたくないのに、触りたい。  「……正常じゃないんすよ、あんた。ヒートに当てられちゃってる時にそんな事言ってっと、後で後悔しますよ」  煽るなと思う。煽らないで欲しい。……たがが、外れてしまう。せっかくここまで耐えた努力が無に帰す。本能に負ける。傷つける。それだけは絶対に嫌だった。  赤らんだ肌が艶かしくて見ていられず、視線を逸らしてそう告げると、分かんない奴だなと松岡がひとりごちた。  「……俺は、あんたならいいって言ってんのに」  遠野が顔を上げると、松岡はこちらを向いて笑っており、誘うようなその表情にざわりと鳥肌が立った。ピタリと動きを止めた遠野を見、松岡は首に当てていた氷のうをぱっと手放し、重力に引かれた布袋は、ぐしゃりと音をたてて床に落ちた。甘い香り。心地良いだけではない、強い香り。  正常、と遠野は先程自分で口にした言葉を脳内に反芻した。先に、正常を外れたのは、俺の方か。一人でいいと思っていた。この先ずっと。そう思っていた自分がこの男に声をかけたあの時、遠野の正常は、多分もう、機能を止めていた。一人がいいと、思っていた。一人でいいと、考えていたはずなのに。家族に、妹に、似た香り一つ。たった一つで、揺らぐ。  十年前、家を出たあの時から、遠野はもう、大切なものは作らないと決めた。自分には何も守れないから。両親のことも、妹のことも、遠野は遠野なりに大切だった。それなのに、最後には自分を優先する。自分が苦しみから逃れられれば、それでいい。そう言う風にしか出来ない。だからもう、大切なものを作るのは辞める。そう、思った。  「他に選択肢、ないと思うけど?」  言いながら、松岡は首を傾けると、片手で襟足をかきあげ首筋を露にして、上目に遠野に視線を送り、どうぞと言った。甘い、ブーケの香り。  ーお兄ちゃん、  遠野が大学進学のために家を出る前日の深夜。電気は消したまま、何となく寝付けず布団にくるまっていた遠野の元に、足音を忍ばせて楓がやって来て、涙に濡れた声音で囁いた。  ー私のせいで、ごめんね  狸寝入りで聞いた言葉と、ふわりと薫った甘い香り。  もし、やり直せるなら。お前のせいではないと、抱き締めてやりたい。お前は何も悪くない。父さんも、母さんも、悪くない。不運だった。ただ皆少し、運が悪かっただけ。  もしも、やり直せるのなら。今度は、絶対に、失敗しない。絶対に、泣かせない。  嫌になったら言ってと、勤めて冷静に告げてはみたが、本当に止まれるかと問われたら、自信を持ってイエスとは言えない。松岡が逃げ出さないよう、座ったままゆっくりと距離を詰める。大した距離ではない。遠野の手が松岡に触れる距離まで近づくのに、時間にして十数秒。松岡は、遠野が手を伸ばすと一瞬、ふるりと身を震わせたが、逃げることはなかった。  どうしようかと一瞬悩んで、遠野は取り合えず、無造作に投げ出されていた手に指先で触れた。熱い。  「っ、」  びくりと、松岡の肩が跳ね、挑発的に襟足をかき揚げていた手がずるりと首の上を滑る。指先の触れ合い一つで溶け出すほど、ぎりぎりの状態だったことに驚く。Ωのヒートの辛さなど想像もつかないが、薬なしで慰めも与えられず一時間以上放置された松岡の身体は、見た目以上にぐずぐずだった。  「……だいじょぶすか」  「いい、からっ……早くしろよ」  ほんの少し触れただけでびくついているくせに。松岡は震えながらも憎まれ口を返す。結構、負けん気が強いタイプなのかもしれない。  そろりと指先を撫で、手の甲を上り、そのまま手首を掴む。小さな動き一つに反応して身じろぐ松岡はいつのまにか目を閉じていて、息をつめて遠野の次の動きを待っている。最初は、あんなに勢いよく逃げていたのに。全部、遠野に任せている。手首を掴んだまま、もう一方の手を松岡の胸の辺りに当てる。心臓が、早鐘のように打っている。  「っぁ、……な、に」  多分反射的に。松岡は胸に触れた遠野の腕をぐっと掴み、きゅっと体を丸めた。ぶるりと、身体が震えた。その瞬間、何かが、ふわりと溢れて止まらなくなる。この気持ちにどんな名前がつくのか、遠野は一瞬考えたが、遠野を掴んだ松岡の指先がするりと柔らかく皮膚を撫で、その感触に思考が霧散する。ブーケのような匂い。がっしりとした手首の感触。腕を掴む手の強さ。薄く開いた目が、潤んでいる。今までより近い距離で、こちらを見上げる瞳と目が合う。きゅっと心臓が縮こまるような心地がして、遠野は緩く捕まれた腕をそっと動かし、親指で松岡の頬に触れた。頬も熱い。耳も真っ赤だ。香りは甘い。でも、その甘さに惑わされてはいない。遠野には意思がある。自分の意思で動いている。大丈夫だと思った。大丈夫、止めろと言われれば、止められる。遠野はふぅと息を吐き、内に溜まった熱を吐き出した。  「噛むけど、気、変わんないすか」  こんと額を合わせて、近すぎてピントの合わない顔に向かって問う。苦しくて仕方ないはずなのに、松岡はにぃっと口角を上げて笑った。  「早く、って、言ってんのに」  いいかげんうざいと遠野の頬に首筋を擦り寄せる松岡の気持ちは分からない。分かりようがない。それでも、一貫して拒否の色はない。あんたがいいなら、それでいい。  首の辺りは匂いが特に濃い。知らなかったなと遠野は思い、目眩がするような香りを吸い込んだ。この辺かなと首筋に唇を当てて呟くと、松岡はくすぐったいと声をあげ、分かんないなら取り合えずやってみればという言葉に励まされ、その部分を一度、唇で軽く吸い上げた。松岡はふっと短く息を吐いた。  「噛みますよ」  予告して、あ、と口を開けると、腕を掴む松岡の力が一瞬ぐっと強まった。怖い。怖いと言っていた。遠野は宥めるようにもう一度、松岡の首筋に唇を押し当て、それからゆっくりと、松岡の首筋に歯を立てた。  「ん……はっ、ぁ、痛っ」  歯を立てた一瞬、松岡の身体はきゅっと緊張し、直後。くたりと弛緩した身体を遠野が支えた瞬間、これまでにないほどに濃い香りが松岡の全身から吹き出した。  「っ、」  意識を持っていかれそうな感覚に遠野は息を詰め、知らず噛みつく力が強くなる。ぐらりと、視界が揺れる。甘い。甘い香り。この段になって、気づいたことがある。松岡の匂いは、少し、違う。楓のそれよりも、少し、甘みが深い。花の咲き乱れる果樹園。噛り付きたくなるような、熟れた果実のまろみある香。ぎりりと噛み締めた肌まで甘い気がして、噛みついたまま吸い上げる。  「ふ、ぁ、んっ……」  匂いだけじゃない。声も、体も、全部。全部甘い。じゅっと音を立てて口を離し、すぐにまた首筋に唇を寄せ、噛み痕をべろりと舐める。ふるりと、腕の中の身体が震える。もっと。もっと、欲しい。 「っ……、と、待って…」 遠野さん、と、切羽詰まった声で名を呼ばれ、はっとする。いつの間にか松岡の両手は遠野の胸に当てられており、待ってと弱々しい静止の声をあげていた。  慌てて身体を離すと、露になったうなじには血の滲む噛み痕と鬱血痕がくっきりと残っており、遠野は咄嗟に松岡の顔を覗き込んだ。  「だい、じょうぶ、」  大丈夫かと、問う言葉が途中で詰まる。真っ白な肌を真っ赤に染めて。今にも零れ落ちそうなほどに目を潤ませた松岡の、やばいと呟いたその唇を塞いだのは、ほとんど無意識だった。  「ん、んっ…ふ」  熱い息を吐き出す唇に噛みつくようにキスをして、性急に舌を差し入れる。ヒートを抑えるのには体液の交換、という思考もなかった訳ではないが、それは完全に後付けで、ただしたいからした、というのが正確だった。松岡が鼻に抜ける上ずった声を上げるたび、背筋がぞくりとする。触れあう舌先が甘い。角度を変えながら口腔内を貪るうちに、松岡は苦しくなったのか段々と喉を反らす姿勢になり、覆い被さる遠野は松岡の顎を押さえて逃れる事を許さず、ようやく唇を離したときには、松岡は肩で息をしていた。  「……渋ってた割には、随分情熱的なことで」  待てって言ったのに。しばらく呼吸を整え、最後にはぁと吐息を漏らした松岡は、先程よりもいくぶんかマシな表情でこちらを見上げて言い、自分の非を自覚していた遠野は、すんませんねと応じた。  「……あんなんなると、思わなかったんで」  唇に残る生々しい感触を手の甲で拭い、遠野はすっくと立ち上がった。多分、先程よりマシなのは松岡ばかりではなく、かなり薄くなった松岡の匂いのお陰で遠野の脳内の霧もかなり晴れており、足元から送られる松岡の視線に晒されても平静を保てる自分の状態を確認して、遠野は安堵のため息をついた。  番が成立したことは、感覚で分かった。さすがに、キス一つではヒートを終わらせるほどの影響はなかったが、フェロモン放出はかなり減少したようで、松岡の発する匂いは先ほどよりも穏やかになり、身体の震えも止まっていた。しかし、遠野がつけた首筋の歯形はくっきりと赤く濃く、本人からは見えない場所にある痛々しいその痕は、恐らく数日は消えないだろうと遠野は思い、なぜか一瞬、喜びにも似た感情が胸に湧いたのだが、遠野がその意味を追いかける前にその思いはゆらりと揺らいであっという間に輪郭を失い、あとに残ったのは、とりあえずでかい絆創膏を買おうという小さな決意一つだった。  「動けます?」  「お陰さまで」  遠野の問いかけに松岡は間髪いれずに応じ、ばさりと頭を振って乱れた髪を軽く整え立ち上がった。倒してそのままになっていたパイプ椅子を起こす松岡から目を外し、時計で時刻を確認する。23時5分。  「……電車、まだ動いてるかな」  「上りならまだあるとは思うけど、そんな遠くまでは行けない」  「バスは?」  「バスはとっくに終わってる。てか、荷物は?」  部屋になんか置いてたやつという松岡の問いかけに、あれは置いて行きますと応じる。  「どうせ着替えとラジオくらいしか入れてないんで」  必要なものは、移動先でまた買えばいい。まあそれも、無事に移動できればの話だ。今日までに歩き回って確認したこの辺りの周辺地図を脳内に浮かべる。  「……こっから一駅歩いて、電車で行けるとこまで行って、そっからはタクシーで」  「了解」  遠野のざっくりとした説明に松岡はそう応じ、一駅ってどこまでと口にしながら、おもむろに首筋に手を伸ばし、遠野の噛み痕をかりりと掻いた。あ、と思ったときには手が出ていた。  「……掻かない方がいいすよ」  遠野はぱしりと松岡の手を掴み、驚いた様子でこちらを向いた松岡に告げた。ぱちりと噛み合った視線。骨張った手の感触に、ざわりと胸が騒ぐ。  痕、残りそうだからと呟きながら手を離すと、松岡は不機嫌そうに眉をしかめた。  「あんた、身長いくつ」  「八十三」  プレハブの鍵を開けながら応じると、隣で松岡がむかつくなぁと呟いた。  「あんたもそんな小さくないすよ」  「七十八!普段そこまで見下ろされることないから、なんか腹立つ」  遠野は笑い、松岡は羽織のフードを被って首筋を隠し、細く開いた扉から、するりと闇のなかに飛び出した。  意義のない存在に、存在する自由はない。服のシミになって、タバコの火消しに使われたコーラに、松岡は自分を見た気がした。父を壊し、姉を汚した。自分さえいなければ、ああはならなかったはずだ。茜の魂も、もっと純粋に愛される場所に産まれ落ちたはずだ。自分さえいなければ。  不運だと、遠野は言った。全員が、不運だった。ならば、悪者は、自分ではないのか。あんたの家族を壊したのは誰かと聞いたら、この男はなんと答えるだろう。前を行く遠野の背中を追いながら、松岡は思う。その答えを、聞いてみたい。あんたの中身を見せて欲しい。この男の目を通すと、俺の世界は一体、どう見えるんだろう。ただ、それを知りたいと思った。  退路は絶たれた。松岡の前にはただ、望洋たる平地が広がっており、いつ終えるとも知れない無間の歩みが待つ。さりと、パーカーの分厚い布の上から首筋に触れる。じくじくと熱を持つ傷の痛み。この痛みが縁だ。終わりの見えない乾いた平野を行く遠野の、その背中を追う。追いかけて行く。  「……松岡サン、行きたいとこあります?俺は人が多いとこならどこでもいんすけど」  仕事しやすいとこがいいなと、前を行く男が、切れ長の目を更に細めてちらりと流し目を寄越す。行きたいところ。俺も、と松岡はすぐに返す。  「どこでも、いい」  あんたがいく場所なら、どこでも。それがとりあえず、松岡の目的地だった。
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