52ヘルツの鯨の歌

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52ヘルツの鯨の歌

 ヒミツ橋で、幽霊の歌が聞こえるらしい。  久しく耳にしなかったヒミツ橋の名前が聞こえたとき、心臓が大きく鼓動し、胸が圧迫されるような感じがした。  街の外れある、三つの橋。どの橋がヒミツ橋なのか、それとも三つ纏めてヒミツ橋というのかは知らない。そもそもヒミツ橋というのが本当の名前かどうかも分からないが、周囲の大人たちが言うのに倣って、僕らはヒミツ橋と呼んでいた。  その橋から見える夕焼けが綺麗で、昔、彼女とよく行っていた場所だった。最後に寄ったのはいつだったろうか。彼女と死別してからは、めっきり行かなくなってしまった。  幽霊の歌の噂を聞いたとき、ふと、行ってみようと思った。そういった類の噂話には興味が疎いけれど、未だに抱いている、亡くなった彼女への未練と決別する良い機会だと思い行くことにした。  大学の講義が終わり、電車に揺られ、地元の駅に着いた後、家とは反対方向に十数分歩く。暫く行っていなかったが、身体は覚えているようで、脳内に地図を思い浮かべることもなく、足は独りでにヒミツ橋へと向かう。  久しぶりに来るというのに、何も変わらない。風が強いのも、日差しが強いのも。昔と全く同じだ。ただ、右隣がちょっとだけ寂しい。  景色が綺麗なところだから、普段から地元のカップルや散歩でやって来た人たちで賑わっているが、噂話が広まっている影響か、記憶にあるよりも人が多い気がする。  柵に腕を乗せてぼんやりと景色を眺めていると、思い出が(よみがえ)る。他愛もない会話や、笑っている横顔。今は、少しだけ冷たい風だけがある。  陽が傾き始めた頃、どこからか声が聞こえた。声というよりは、歌に近い。噂にある幽霊の歌というやつだろうか。誰かの鼻歌だと思ったが、いつの間にか人気(ひとけ)が無くなっている。どことなく、懐かしい感じがする。この歌を、僕はどこかで聞いたことがある。  歌の発信源を探ろうとして振り返ると、亡くなった彼女がいた。最後に会ったときと同じ服装で、最後に見た写真と同じ表情で、こちらを見ていた。  夢でも幻覚でも、嬉しかった。言葉にならない声だけが口から零れる。  抱き寄せると、何ともいえない感触がした。空気の塊でも触っているかのような感覚だった。それでもなお、彼女は上機嫌そうに鼻歌を口ずさんでいる。  彼女の鼻歌は、空気に溶けるように、段々と音が低くなり薄らいでいく。  ――――――  瞬きをすると、すっかり日が暮れていた。まだ一番星くらいしか見えないが、数時間は経過してしまっている。スマホを確認すると、何も通知は来ていなかった。それを確認すると、踵を返してヒミツ橋を後にした。  曲名も歌詞も知らない、彼女がよく口ずさんでいたメロディーは、まだ耳に残っている。 
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