Marlboro-マルボロ-

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「もういいって!!」 ーーガンッ! 大きな音を立てて机が跳ねた。 冷めたコーヒーがカップの中で揺れる。 「頼むから…ほっといてくれ。」 ペンを握ったままの右手が痺れている。 机を叩いた事実と鈍い痛みを知覚できたのは、それから暫く経ってからだった。 「……。」 重たい沈黙、誰が創り出したのか… そんなものは分かりきっていたのに動くことができなかった。余裕なんか全然なかった。 「そっか…分かった。」 だから、 そう小さく呟いた彼女の表情なんて見れるわけもなくて。俺はただ激しく波打つ感情と闘いながら、背中越しの彼女の言葉を拾うので精一杯だった。 「ごめんね、邪魔しちゃったね…」 「……」 そんな寂しい言葉を残して彼女が部屋を出た。 あれから、もう三時間が経つ。 「ほっといてくれ」なんて偉そうな事を言ったって、そこから原稿は一文字だって進んでいなかった。 ペンを持てども持てども書けない。 明るい言葉なんて一つも出て来やしない。 ライターになって二年目。 これは所謂スランプというやつだろう。 思い通りに言葉を表現できない自分の技量の無さに嫌気がさして仕方がなかった。 四年制の大学を卒業して優良企業に就職して、誰が言い出したのかは知らないが「石の上にも三年」と真面目なフリして働いて、でもどうしても物書きになりたくて、フリーのライターになった。 彼女と同棲を始めたのはそんな時だった。 夢を叶えたはずなのに、その矢先にこれだ。 どうしようもない遣る瀬無さと己への激しい苛立ちは収まる場所を見つけられないまま、ついぞ爆発した感情はそのまま彼女に投げつけてられてしまった。 まるで子供だ。 八つ当たり…。 あんなものはそれ以外の何物でもない。 ああ…全く、本当に、 なんて馬鹿なことをしているんだろう… 陽が傾いて、少し暗くなった部屋で一人。 後悔の言葉ばかりが頭を巡ってどうしようもない。文字通り、頭を抱える。 彼女は何も悪くないのに…。 書けないのは俺自身のせいじゃないか…。 自己嫌悪と正論が、自分で創った傷口を容赦なく抉っては広げていく。 ペンを置く。無意識にタバコに火をつけていた。 彼女が綺麗に掃除した灰皿には、まだ一欠片の汚れも付いてはいなかった。 五センチほど開けた窓からは静かに風が流れ、煙が柔らかく外の世界へと運ばれていく。 ーー会いたい…。 どうしようもなくそう思った。 ごめん… 今ならそう言って素直に謝れる気がした。 謝りたかった。 どこに行っただろう。何をしているだろう。 情けないが全く見当もつかない。 だが駆け出さずにはいられなかった。 まだ半分も吸っていないそれを灰皿に乱暴に押し付ける。 窓は閉めなかった。 煙草の煙の行方に彼女がいるような気がした。 安アパートの二階。無駄に足音が響く階段をサンダルで駆け下りる。部屋の中では感じることがなかったのに、足元の冷気に秋らしいあの何とも言えぬ寂しさを感じている自分が奇妙で切なくなる。 どこにいる?どんなカオでいる?どんな気持ちでいる? そんな疑問が浮かぶ度に自分を殴り付けたい気持ちになった。 どれだけ傷つけてしまっただろう。 彼女に何と言えば許してもらえるだろう。 陽はもう西に落ちかけている。 夕焼けが空を染めようとゆっくり手を伸ばす。 橋のそばまでやってきた時だ。川面の輝きがやけに眩しくて、嫉妬にも似た感情を覚えながら目を細めた。 一瞬、その時だけは世界がピタリと止まっているような不思議な感じがした。 聞き覚えのある音が、ふいに届く。 「あ、れ…?」 「…」 反射的に顔を向けていた。 俺とは反対に、目を真ん丸にした彼女がそこにいた。 探していた人のはずなのに、何故だか少し身体が緊張したのがわかった。 それなのに、 「わぁ、びっくりした!どうしたの?」 「……」 そう言ってふわりと歩き出す彼女のワンピースが揺れる。空色がきれいに波を打った。 彼女は秋の風を孕んだそのやさしいストライプのように、かろやかに笑っていた。そのいたずらっ子のような聖母のような温かい表情を見つけた途端、どこか肩透かしを食らったような感覚が押し寄せる。 「そろそろ帰ろうかなぁとは思ってたんだけどね、 まさか迎えに来てくれるとは思わなかったなぁ」 ふふっ 軽く声を漏らすと、彼女はまた嬉しそうに頬を緩ませた。 なんだそれ… なんだその笑顔は… 怒ってないのかよ?なんでだよ! そんな心の声が頭に響くのに、 なのにどこか一方で、途方もなくホッとしている自分に、俺はとっくに気がついている。気がついて、だからどうしようもない情けなさに、また胸が押し潰されそうになった。 弓なりの稜線を描く瞳。 その中に彼女の嬉しそうな表情を見つけて、気がつくと駆け寄って、思い切り、俺は彼女を抱きしめていた。 「ん…とと…」 「……」 驚いて少し体を強張らせた彼女が小さく鳴く。 彼女の首元に埋めた鼻先に、彼女の匂いと混ざりあった金木犀のやさしい香りが届く。 その香りも温もりも声も心も、何故だが彼女の全てを無性に手に入れたくなって、彼女の全てに触れたいと、ただこの腕で確かめたいと、俺はどこか祈るように、彼女の息遣いを全身で感じていた。 ゆっくりと、溶けるように、体の力が解れていく。それが彼女の方なのか俺の方なのかは分からない。もう分からなくてもいい気がした。 「…なぁに、どうしたの?」 少しの沈黙のあと、 川音にハミングするように彼女が囁く。 微笑みながら、子どもをあやす母親のように俺の背中にとんとんと触れる。 彼女はこうやっていつも俺の少し先にいる。 「ごめん…」 くぐもった声で呟いた。 思ったよりもずっと素直に言葉が零れ出したのに、言ってしまった後の方がどこか少し気まずくて、より深く、潜り込むように、ずるずると彼女の首筋に頭を沈ませてしまう。 まるで赤子か犬か。大の大人が恥ずかしいと泣けなしの羞恥心がそう叫んでも、それよりも遥かに大きな安らぎに絆された心は、もうとうにコントロールなど効かなくなっていた。 少しくすぐったそうに首をよじる。彼女は仕方なさそうに、そして静かに呟いた。 「……ん、、わかった…。」 ただ一言だけそう言って、また背中をとんとんなでる。ゆっくりと、やさしく。心のざわめきが引いていく。波立った心が凪いでいく。彼女が刻むそのリズムが愛おしくて、温かくて、ありがたくて、俺はまた力いっぱい彼女を抱き寄せた。 「ふふ…ねぇ、いたい」 「ごめん…」 「うん。わかってるから…もういいよ?」 「うん。…」 続ける言葉は ごめん、だろうか? それとも、ありがとう、だろうか…? どちらを口にするべきか。迷っているうちに、結局どちらも言えなかった。 甘え方、下手くそでごめん。 いつも優しく笑ってくれて、側に居てくれて、愛してくれて、ありがとう。 言ってしまえば良いだけなのに、 何故だか彼女の前ではそれすら野暮な気がして、 何故だかいつも言えずにいる。 抱きしめた腕がゆっくりと解かれていく。 茜に染まった彼女の表情が儚くて、そしてわずかに色っぽい。 「…帰ろうか」 柔らかい口調でそう言った彼女の唇もまた 夕日のような茜色に染まっている。 手を繋いで部屋に帰った。 後ろ手でドアを閉める。 靴を脱ぐ彼女にそのままキスをした。 離したくない気がして、 唇に触れたまま目を閉じていると、 彼女の唇が食むようにやさしく動いた。 角度を変えて、何度もゆっくりと温度を交わす。 秋に冷やされた肌が、皮膚と皮膚が触れるたび、熱を取り戻すように火照り出す。 こぼれる吐息を食べるように唇が動く。 潤いを味わう様に舌が絡みあう。 部屋の奥、五センチ開いた窓からは、 まだほんのりと光が差し込んでいた。 空には瑞々しく馴染むような、夜の深蒼が滲み出していることだろう。 仄かな秋夜の冷たさが部屋の空気を澄ませていく。 なのに部屋の隅までたどり着く頃には、もうあの寂しさは何処にも見つけられなくなっていた。 そして、ふと思う。 この部屋にそんな寂しさがないのは、彼女の温もりがあるせいだと。 彼女の体温が、あたたかい心が、いつもこの部屋で俺をやさしく包んでくれているからだと。 かけがえのない日常に彼女がいる。その奇跡に漸く気がついて、俺はまたどうしようもなく彼女の存在を確かめずにはいられなくなった。 甘い吐息、体の曲線、彼女の香り、心臓の音、 足の指先まで、ひとつも逃さず、もっと奥深く…どこまでも… 彼女の存在の全てに触れるように、 丁寧に、じりじりと、その体温を感じていく。 熱い…、火照った身体が汗ばんでいく。 彼女をしっとりと潤す水滴が宝石のように光る。額の汗を優しくぬぐった。潤んだ瞳、とろけるような表情。堪らなく、彼女は美しい。 「……ぁ…」 つぼみのような声で彼女が鳴いた。 美しく反らせた背中が、吐息の漏れる唇が、彼女のすべてが愛おしい。 唇を重ねる。 そのキスは、淡いマルボロの味がした。 「愛してる…」 思わず呟いたその言葉は、 彼女に届いているだろうか。 構わない。何度でも伝えよう。 穏やかな表情で眠る彼女に優しく触れる。 ありがとう、愛してる。 下手くそだけど、こんなにも君を愛していると、俺は何度でも思い出そう。 秋晴れの夜空に星が散っている。 マルボロの煙が秋に燻っている。
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