1.獣人の一家

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 シリルは一週間前まで、両親と森の奥でひっそりと暮らしていた。獣人の多いこのハムスタッドでは珍しいことに、父母はどちらも人間で、山菜や木の実、キノコを採り自分たちの食べてゆくだけの野菜を作っていた。両親ともに菜食主義者で、肉を食べることはなかった。シリルも生まれたときから肉を口にしたことはなく、山の幸だけを食べて十歳の誕生日を迎えた。  先週のことだった。オメガだった母に予定より早く発情期(ヒート)が訪れてしまった。人間、獣人問わずオメガ性を持つ者特有に三か月に一回訪れるという発情期は、オメガ本人には熱とだるさ、頭痛などに悩まされると聞く。しかも厄介なことに、そのような体の不調に苛まれているオメガの望むと望まざるとにかかわらず、アルファ性やベータ性を持つ者を惹きつけてしまうのだ。 「お母さん、顔が真っ赤だよ。汗もたくさんかいてる。風邪ひいてるの?」  まだアルファやオメガなどの体の仕組みを学んでいなかったシリルは、山菜を積んだ籠を背負って帰宅したとき、まるで性質の悪い風邪をこじらせてしまったような母にそう言った。いつもなら台所で温かい夕食を作ってくれる母は寝台で頭から毛布を被り、身動きも取れない有様だった。 「ええ、急に具合が悪くなって。……お父さん、お願い。一番近くの薬屋さんに行って、抑制剤を持ってきてほしいの」 「もちろんだ。しかし……」  父が一瞬、シリルの顔を覗ったように見えたので、シリルは首を傾げた。 「この子はまだ性分化していなかったか。もしオメガならお前のそばに置いておけるんだが、それ以外となると、お前のフェロモンに影響されてしまう。……おとといくらいに流れ者のアルファ獣人が森に入ったと聞いたばかりなのに、間の悪いことだ」  言い淀む父と苦しそうな母を見て、シリルは彼らを安心させようと口を開いた。 「お父さん。僕、獣人からお母さんを守るよ。いつもお母さんがしてくれるみたいに、濡れたタオルを絞ったり、部屋を温めてあげる。だから心配しないで」  ふたりとも喜んでくれるだろうと思った言葉は、父の唸るような声でかき消された。 「駄目だシリル、お父さんと一緒に来なさい。メリル、家の内側からでいい、暖炉に置いている鍋を通す棒で内側から(かんぬき)を架けるんだ。家の中で一番強い金属だ」 「分かったわ。……シリル、いい子だからお父さんと一緒に行ってちょうだい。看病してくれるのは嬉しいけれど、あなたに移ってしまうかもしれないの。ごめんね」  頬を軽く撫でられ、その手が持つ熱に驚いた。母は重病人なのだ。「ううん、気にしないで」と言い残し、シリルは父と馬に乗り森の入口へと向かった。  馬に出発の合図を送ったとき、折り悪く雪が降り出した。いつもは荷物やひと一人しか乗せない馬だから、シリルと父が乗っているだけで歩みが遅くなる。顔が痛くなるほどの寒さのなか悪路を進み、薬をもらって森に戻ったときにはもう真夜中と言ってもいい時間になっていた。  遠くから見ると、シリルたちの家は普段と同じようにオレンジ色に光っていた。だが、いつものように窓から洩れる四角い灯りではなかったので、シリルは不思議に思った。 「ねぇお父さん、窓じゃないところから灯りが洩れてる。……なんだかおかしい」 「なんだって!」  近付くと、家の扉は外から力任せに押されたように蝶番(ちょうつがい)ごと外れていた。泥の付いた大きな足跡で踏み荒らされた木の床に、容赦なく雨まじりの雪が降り積もる。明らかに部外者が入り込んだあとを目にした父は馬から飛び降り、髪を振り乱し一目散に寝室へ向かって行った。いやな予感がした。 「メリル、メリル! ああ、なんてことだ……!」  慟哭ともいえる父の叫びが聞こえてくる。シリルは父母の寝室へと足を踏み入れた。部屋の中はひどく酸っぱい匂いで満ちていて、そのほとんどが寝台付近にあったことから母が嘔吐したのだと分かった。母の着衣は乱されていて、引っ掻き傷が顔に数本走っていた。きっと悪漢が家に押し入ったときに抵抗したのだろう、シリルの見たことのない痣が付いた脚には一筋の赤い血が伝い、体じゅうに白い粘りけのある液体が撒き散らされていた。吐瀉物(としゃぶつ)だけではなく、白い汁からも海のような匂いが発せられていた。あまりにも生々しくむごたらしい姿だった。 「お母さん……」  首筋には噛まれた形跡があり、まだアルファやオメガの仕組みについてぼんやりとしか知らないシリルも、首筋を噛むという行為だけは知っていたので母が無理やり番つがいにされそうになったのだと分かった。母が受けた暴力を思い浮かべるだけで、涙が溢れて世界が歪んでしまう。目に見える傷だけではない。罵声を浴び、脅され殴られて、それでも母は抵抗したのだ。  母の首筋の噛み跡を撫でる父が、聞き取れないほどの小さな声でつぶやく。 「この不規則な歯形は獣人のものだ。森にいると噂されている流れ者のアルファだろう。きっと強引にお母さんを番にしようと……!」 「お父さん」  シリルも母が好きだったが、父とはもっと昔から愛し合っていたのだ。母の亡骸を抱きしめ震える父から嘆きと憤りが伝わってくる。――おそらく今、父は泣いている。 「シリル、明日になったら領主様のところへ行って、お母さんを弔いたいとお願いしてきなさい」 「お父さんは?」 「お父さんは今から、お母さんを殺した奴を追う。……必ず後悔させてやる」  そう言うと、父は寝台にそうっと母を横たえ、部屋の隅に置いてあった猟銃を肩にかけて玄関へと大股で歩いて行った。釣られて追い掛けると「シリルはお母さんに付いていてあげなさい」と、ひどく優しい目で言われた。  玄関の扉をまっすぐに取り付けると、父は寒風吹きすさぶ雪世界へと一歩踏み出した。横殴りの風雪のせいで、あっという間に姿が見えなくなる。母は死に、父は敵かたきを討ちに森の奥深くへ消えてしまった。シリルの日常は壊されてしまった。
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