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「ん……」
覚醒したときに派手な花の壁紙が目に入り、一瞬知らない女の人の家に来てしまったのかと勘違いした。朝陽がカーテンから透けて届き、小鳥たちのさえずりが爽やかに響く。うなじに走った痛みに手をやると、すでに包帯を巻かれていることに気が付いた。
(そっか。僕、ゆうべグレンと……)
昨夜のことを思い出すと、いつもより大胆に振る舞った記憶しかなくて、思わず上掛けを頭から被ってしまった。
「シリル、宿の者に言えば湯をもらえるそうだが。……起きたんじゃないのか?」
浴室と思しき部屋から、グレンが顔を見せる。
「起きてる……」
顔を見せようと上掛けから頭を出すと、グレンが上半身裸でやってきた。
獣毛に覆われた立派な胸筋が目に飛び込んで来ると同時に、昨日背中であの胸を感じたことを思い出して照れてしまう。
「ちゃ、ちゃんと服着てよ!」
「寝間着のサイズが小さかったんだ。しばらくこの格好でいる。首の痛みはどうだ、ひどくないか?」
寝台に腰掛けたグレンが、横になったままのシリルを覗き込んでくる。心配そうな薄水色の瞳と目が合って、負担をかけているというのになぜか嬉しくなってしまった。
「大丈夫、そんなに痛くないよ。僕の我が儘聞いてくれてありがとう、グレン」
湿った鼻先におはようのつもりでキスをする。グレンが楽しいときや嬉しいときに鳴らす喉音が聞こえてきた。そのまま、幼い頃のように寝転がったままじゃれ合い、クスクスと笑い合う。
「家に帰ろう、シリル。父さんと母さんに、これからのことを話そう」
「おかえりなさいシリル君、グレン。夏至祭は楽しかった?」
「楽しかったよ。黙って泊まってきちゃってごめんなさい」
「いいのよ。でも、今度からは連絡してね」
昼近い帰りになったことを、両親は咎めなかった。穏やかに微笑んで接してくれる。暗黙の了解をしてくれるのは嬉しいが、二人揃っての朝帰りは気恥ずかしくて仕方ない。だが、その黙認も首元の真新しい包帯を見られるまでだった。
「シリル君、その怪我……! グレン、まさか無理やりじゃないでしょうね?」
「無理やりってなんだ」
キッ、とグレンを睨んだ黒豹の母を見て、やはり心配をかけてしまったのだと心が痛んだ。
「違うんだ母さん、僕が頼んだんだ。今はまだ発情期じゃないから、噛んでも意味がないって分かっていたけど、そうして欲しくて……」
二人のあいだに割って入ると、仁王立ちになっていた母がフンッと鼻息を吐いた。
「そう。だったらいいわと言いたいけれど、あなたたちのことだから、きちんと消毒してないでしょう。ちゃんと母さんに傷を見せて、治療させて。そうしたら、黙って帰って来なかったことも含めて許してあげる」
「母さん……」
「シリル、いい機会だ。今俺が言う。父さん、母さん。俺とシリルは近いうちに結婚する。職場に通いやすいように、領主様の屋敷の近くに家を建てるつもりだ」
グレンが四人の真ん中で宣言すると、父母は同時に喋りはじめた。
「本当か、グレン? この家を出て行ってしまうのか」
「シリル君、嘘よね? ずっとここにいるわよね?」
父に尋ねられ、母に手を握られてうろたえるが、グレンを覗うと「ちゃんとしろ」とでも言うような視線を寄越され、背筋を伸ばした。
「本当だよ。だって僕たち、もうとっくに大人なんだ。これから家族も増えるだろうし……」
子作りのための新居だとはとても言えなくて、ごにょごにょと語尾を濁す。大柄な黒豹の母は一瞬虚を突かれたように「家族……」と呟き、父のほうに向き直った。
「父さん、男の子ってあっさりしてるのね。大事に育てた息子二人がいっぺんに旅立ってしまうなんて、めでたいことだけどさみしいわ」
「しかし、結婚するなら、家を出ることも祝うべきなのかもしれんな」
夫婦二人にしか分からないことを言い始め、シリルとグレンは顔を見合わせた。
「でも、ちょっと待って。二人の子供が見られると思うと、少しでも早く本当の番同士になってほしいと考えてしまうわ。一体どうしたらいいかしら」
いつも冷静な彼女らしくなく、夢見るように頬に手を添えた母が、想像の世界に羽ばたいてゆく。その横をグレンが通りすぎる。
「じゃあ、俺はこれで。描きかけの絵があったのを思い出した」
「僕も」と言いかけたが、肩をむんずと掴まれた。
「……シリル君、あなたは待ちなさい。噛み傷はきちんと消毒しないとね」
「母さん……」
その後は母の独壇場だった。孫は三人欲しいとか、もし四人目が生まれたら遺伝の法則で黒豹が出来るとかという想像図を、治療が終わったあとも聞く羽目になってしまった。居間の椅子で仕方なく聞いている父をちらりと横目で見ても、励まされるように頷かれ、これが無断外泊の報いなのだと愛想笑いで凌ぐしかなかった。
「そうそう、これも聞いておかなくちゃ。シリル君は子供は何人欲しいの?」
「ふ、ふたりくらいだけど。もう、勘弁してよ母さん!」
くだらない話に付き合いつつ、生ぬるい安泰がこの家にいつまでもありますように、と心の隅で願う自分がいた。
【了】
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