9人が本棚に入れています
本棚に追加
1
虹色のゴキブリが天井を横切っていた。老朽化の激しいこのビルにはよく出現する。決まってだいたいこの時間帯に。質の悪い油が滴る空間を縦横無尽に駆け抜けた証。いろんな色の照明に反射して表面が虹色の光を放つ。でも哀しいかなそれすら綺麗に見える時がある。この街では。
「にぇいにぇい、おっぱいっちゅっちゅ。おっぱいっちゅっちゅね」
ギリギリ日本語を喋っている横のオヤジはここに辿り着くまでに中枢神経が安酒に犯られていて、席に着くや否や私の胸を鷲掴みにしていた。その上吸い付こうとまでしている。
この日私は胸元に飛んでくる性欲に支配された手や顔を払いながら自分の誕生日を迎えていた。ハッピーじゃないのは確か。
終電を見送った酔っ払いオヤジ相手の接客の何が厄介かと訊かれれば、まるで悪趣味なシューティングゲームみたいだから。せめて相手がネコやイヌみたいな可愛い姿だったら良いのに、だいたいが喋るドブなんじゃないかってくらい醜い。最悪。
この時間の私は下卑たモノノケに体をまさぐられてヘラヘラできるほど出来た女じゃない。
「おっぱいっちゅっちゅ。おっぱいっちゅっちゅしょー?」
「お客さぁん飲み過ぎーちょっとぉ」
出せる猫なで声もそろそろ弾切れで、いよいよ血が沸騰してきた。月末は無駄に繁盛するからどのテーブルも満杯でヘルプを要請できないし、ボーイも慌ただしくしていてアイコンタクトも取れやしない。
ため息をつきそうになった瞬間、手がパンツに突っ込まれて背筋が凍った。
這い進む芋虫みたいな指の行き先は決まっていた。ギリギリのところで手首を掴み必死で食い止めていると耳元で囁かれる。
「俺ぁ昭和生まれだぞ、舐めるなよ」
腐臭に近い吐息をかけられ、ただでさえ短い私の堪忍袋の緒がこの瞬間盛大に引きちぎれた。
半立ちになって男の後頭部の残り少ない髪を掴み、口におしぼりを突っ込む。そのまま顔面をテーブルに全力で引き倒し、鼻の軟骨を潰して視界に火花を咲かせた。目をくらませている間にマドラーを手に取って耳の穴に勢いよく刺し込む。オヤジの喘ぎ声はおしぼりが吸い取ってくれるから存分に奥まで挿れてあげる。三分の一くらい入ったら鼓膜が破けてその奥にある細くてデリケートな骨がパキパキ割れる感触がプチプチを潰しているようで結構気持ちが良い。なかなか深くまで入ったマドラーを引っこ抜くとドロっとしたものが出てきて脳みそかと思ったけど、違ったみたいで少し残念。一応キャバ嬢らしく拭いてやる。
再び髪を掴み頭を起こして、服の上から乳首を半回転させてオヤジの耳元で囁く。
「令和生まれ舐めるなよオッサン」
ホラー映画のベタな死にキャラみたいな表情をしていてこっちは笑いを堪えるので必死だった。
「お客様お帰りでーす。ありがとうございましたー」
流れ作業のようにセクハラオヤジを送り出すと店長のオザキさんが私のもとを訪れる。ブルドッグに見えるくらい眉間にしわを寄せ、どう見てもお祝いの言葉をかけてくれそうな雰囲気じゃない。この時点でヤバイと気づいても時すでに遅し。
「イチカお前いい加減にしろよ」
「あ、え、えっとぉ」人差し指を口に当て、とっさに古めのリアクションを取ってしまった。
「仮に今のオヤジがどこぞのお偉いさんだったとしたらお前終わりだぞ」
「でも監視カメラで押さえてますよね? お触り」
「客の耳にマドラー突っ込んだ映像提出して法廷で勝ち目あるってか、ああ?」鬼のような剣幕で凄まれる。
「すみません・・・」
今日くらい優しくしてくれると期待した私がバカだった。
「もういい、頭冷やして今日はもう着替えて帰れ」
最初のコメントを投稿しよう!