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 立ち並ぶビルの間を吹きすさぶ風がいつになく冷たい。自販機で買ったポタージュスープをすすっても一向に温かみを感じない。どうも原因は体温じゃない。ふと冷静になると心がバキバキに崩れてこぼれ落ちそうだった。  この街は至高の快楽と破壊的な孤独が同居している。気を抜くと若さを対価に魂が無遠慮に削られる。住人たちの精神寿命はきっと長くはない。それでもここでなくちゃ呼吸が上手くできない。まるで深海魚。そんな私も例外じゃない。  ガードレールに腰掛けひたすら女々しい大学生みたいなことを考えたところで、半年前に私の元から姿を消したろくでなしに押し付けられた借金は消えやしない。  いじったし顔とかには自信があったからこの辺のキャバにでも入れば余裕と思ったけどアメリカのブラウニーくらい考えが甘かった。日本随一の繁華街は伊達じゃなく洗礼を受けて今日で半年。借金を返済できるメドは立たないどころか今月の家賃すら危うい。死にたい。  路上を転がるゴミを見つめてもそれに群がるネコほどでかいネズミを眺めてもどうにもならないから、とりあえずタクシーを拾って帰ることにした。熱いシャワーで涙と一緒に少しでも後悔を流したい。  靖国通りに出て手を上げると、すぐに一台の黒いタクシーが目の前に停まってくれた。もしかして今日唯一私に優しいのはこの運ちゃんかもしれない。なるべく奥の座席に腰を深く沈め、目を瞑り大きなため息をついた。運転手は疲れて見えた私を気遣ってか、少し間を空けて声をかける。 「どちらまで?」 「大久保まで!」  は? 今のは私じゃない。横を見るといつの間にか人が座っていた。十三、四くらいの少年でキャップをかぶり元気よく右手を上げ、運転手に向かって答えている。 「かしこまりました」有無を言わさずハンドルが切られた。 「え? ちょっと! ちょっとあんた何!?」  少年は携帯端末で誰かと通話していた。 「うん、今向かう。わかってるって急ぐから」 「ちょっと、聞いてるの!? なんなのあんた! どこからってちょっと!」当たり前のように振る舞う少年を前にテンパりすぎて空回る。 「うるさいなあオバさん今話し中なんだけど」 「オ、オバ・・・私今日でまだ二十二だよ!」 「あ、なに今日誕生日?」ポケットからガムを取り出し口に放っていた。 「そ、そうだけど」 「おめでとう」笑顔が無駄に可愛い。 「おめでとうじゃねえよ! 勝手に乗り込んで何してくれてんの!」 「しーっ、あんま叫ぶなよ行儀悪いよ」  確かに運転手がバックミラー越しに睨んでいた。全然優しくなかった。 「急いでて目の前にいたのがこのタクシーだったんよ、許してよ」 「私逆方向なんだけど」 「大人になっちゃうと人生一方通行なの?」ガムをクチャらせ外を眺めている。 「は? なんの話?」 「ギン」 「へ?」 「俺ギン、オネーサンは?」わざとらしく間延びした発音で訊いてきた。 「イチカ」 「へえ、いい名前じゃん。よろしくイチカ!」無駄に可愛い笑顔リターンズ。  なんなんだこのガキめちゃくちゃ調子狂う。 「あ、運転手さんこの辺で大丈夫!」  タクシーは交差点で停まるとドアが開かれ、ギンは「ありがとー!」と言い残し颯爽と駆け出した。 「ちょっと!」やつのパーカーのフードを掴もうとしたが外した。すると運転手が無賃乗車と思ったのか強めの口調で言ってきた。 「お客さん、降りるならお代」やっぱ全然優しくなかった。  このままじゃ腹の虫がマジで治らないから電子マネーで急いで支払ってギンの後を追った。すでに結構離されている。 「あのクソガキ!」  パンプスに締められた足が悲鳴をあげる。ラブコメ映画の主人公みたいに脱ぎ捨てられたら格好良いんだろうけど出来ないのが貧乏女の悲しい性。お気に入りだし根性で駆ける。走るのは幼い頃から得意だったからしばらくしてだいぶ距離は縮まった。  ギンは一軒のアパートの二階に上がり、鍵穴を二本の工具でいじり始めた。友達の家に遊びに来ているようには見えない。その扉の前に到着した頃私はすでに息が上がっていた。 「なんでついてくんだよ」鍵穴を覗き込みながら後方の私に話しかけていた。 「タ・・・タクシー代」店で薄めていたはずのウーロンハイが今頃になって効いてくる。 「んな数百円じゃんかあ」 「そういう・・・問題じゃなウッ」ちょっと危ない。 「よっしゃ」  鍵穴からかちゃりという音が聞こえ、ドアが開いた。ギンはなんのためらいもなく滑らかな身のこなしでドアの隙間に入っていった。 「ちょ、ちょっと・・・お、お邪魔しま〜す」深夜で人目につくとさすがにまずい気がして私もとっさに入室した。  六畳一間、ピンク一色の装飾が施された可愛らしい部屋だった。テーブルにはメイク道具や香水などが整然と並べられ、一見几帳面そうな家主は留守だった。いろんな意味で。風呂場にいたギンを追って覗き込んだ私は絶句した。  どこにでもいそうな可愛らしい細めの女の子が真っ赤な浴槽に力なく浸かっていた。だらりと垂れた手首からは血が垂れ、半開きの目は時の彼方へ向いていた。無数の錠剤と酒瓶が何本も転がっている。いよいよ酸っぱいものが込み上げた私は、口を押さえ頑張ってチューリップ畑をイメージしたけどダメで、トイレに向かって豪快にリフトオフした。 「勝手についてきて汚ねえなあ」私を白い目で見下ろしながらギンがつぶやいていた。 「な、なんなのこれ」気が動転してとっさに口を突いて出たのは恥ずかしいくらいありきたりな言葉だった。 「死体だけど」 「そんなの見りゃわかるわよ。あんたがやったの?」  ギンは目を見開き吹き出した。 「んなわけないじゃん。イマムラミツキ、二十歳。風俗嬢。ホスト狂い。多重責務者。アルコール依存症、摂食障害、心的外・・・なんて読むんだこれ、まいいやいろんな病気が書かれてる」端末の画面を眺めながら読み上げていた。 「二十歳・・・年下かよ。いやじゃなくてなんであんたがそんなん知ってる上にこんな現場に踏み込めるのよ」 「つい数時間前に『死ぬから』ってここから出ていた通信を拾ってるんだ。ビジネスだからね」ゴム手袋をウエストポーチから取り出し手にはめている。 「ビジネス?」 「そ。ファミリービジネス」  ギンは次に小型のメスを取り出し、天井を向いていた女の頭を掴み前にゆっくり倒した。慣れた手つきで首筋にメスを立てる。 「ち、ちょ・・・うっ!」再び酸っぱいものが込み上げる。  ぱっと見気持ちの良い光景ではなかったけど、ギンの手さばきは見事だった。刺身をさばく職人のような手つきで鮮やかに七、八センチほどの切れ目を入れ開くと、指を入れて丁寧にまさぐった。「めっけ」とつぶやくと小さなカプセルが指に摘まれて中から出てきた。洗面所で血を流すと取り出したケースにそれを入れ、傷口を速やかに透明な針と糸で縫合し、遺体を元の位置に戻した。一連の作業は五分とかからず、あまりの手際の良さについ見とれてしまっていた。帰り支度を始めた頃に我に返った私はギンに訊いた。 「一体なんなのそれ?」 「ん? マイクロチップだよ」 「マイクロチップ?」 「そ。政府が管理するための個人識別情報が詰まってる。こいつを売るのがうちのビジネス。良い金になるんだ」 「なにそれ、誰にでも入ってんの?」 「イチカ生まれは? 平成? 令和?」 「令和元年」 「じゃあ入れられてるよ。令和生まれ以降は全員。死にたくなったら連絡してな」連絡先の書かれた紙を渡される。  今の私には全くもって笑えない冗談だった。無意識に首筋に手を当ててしまう。 「あ、兄ちゃん今終わった。うん、わかんない。でも明るくならないうちには帰るよ」  電話を切り「今日の分終わりー」と伸びをしながら玄関へ向かう。 「あんたのやってることこれ、犯罪だよね」 「人聞き悪いなあ、まだグレーだよ。でも法律なんてのは所詮人間の考えたもの。人を陥れない程度であれば破っても地獄には落ちないって兄ちゃんが言っていたよ」 「親の顔が見てみたいわ」 「親の顔見たことない」  返す言葉が私には見つからなかった。玄関を出たところで急に腕をギンに掴まれる。 「まずい」  ギンの視線の先を見ると、男が三人アパートに向かう姿が見える。目を凝らしてよく見ると、一人の男の胸元には〈警視庁〉と書かれてあった。早速目がバッチリ合い、部屋から出てきた私たちを怪しんだ警官たちは徐々に小走りになった。最悪。 「イチカこっち!」  ギンは私の腕を掴んだまま部屋に戻り奥にダッシュして窓を開けた。下を見下ろすと「イケる!」と発しダイブした。 「うそでしょ」  目を疑ったが迷っている暇は無かった。「待て!」と言う声とともに後方から足音が迫る。私は意を決して窓から飛び出した。  荒々しく着地した先はゴミ置場だった。積まれたゴミがクッションになったものの、様々な臭いの汁をかぶった。タルタルソースとスライムを混ぜたような謎のシミも服にいっぱい付いた。クリーニング代を計算している暇も無かった。急いで立ち上がりとにかく死に物狂いで走った。
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