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師匠は魔女ではなかった
私にはお師匠様がいる。まあ色々あるのだが家出娘の私を拾ってくれた物知りなおばあちゃんである。森の中に住んでいてたくさんのことを知っていて、体も心も元気な人だった。
世の中には悪魔に魂を売って、寿命やら魔力やら知識やらを手に入れる魔女がいるらしい。彼女は決して魔女では無かったのだと私は知っている。師匠は運動して食事に気を使っていて何歳なのかは知らないが多分年齢にしてはすごく元気だった。私に軽く剣術やら体術を教え、生きる知恵を与えてくれた。分からないことは本人も調べていたし、毎日毎日色んな本を読んでずっとずっと新しいことを学び続けていた。私は魔力を持っていて簡単な魔法も使えた。師匠は魔力なんて持っていないごく普通の人だったがそれでも私よりずっとずっとすごかった。
そんな彼女に憎からず思っている相手がいるのは知っていた。その相手が人間じゃ無いことも知っていた。
「ねえ、またあの悪魔が師匠を見てるんだけど。」
師匠はそれに大きく笑った。
「あれはね、私のことが大好きなのに方法がわからないお馬鹿さんなんだよ。」
私よりずっとずっと前からずっとずっと師匠のそばにいた悪魔は何度も師匠に魂を売るように持ちかけた。だけど師匠は首を縦には振らなかったという。力もある、魔力も特に必要ない。知識は自分で得るのだと。
最初の出会いは師匠がまだ片手の数で数えられるくらいの年齢の時。森に入って迷ってしまった師匠はパニックを起こして日が傾いていく森の中で泣いていたと言う。そこにやって来たのが後に師匠にずっと付きまとっている件の悪魔である。悪魔は師匠に
「家に帰してやるからお前が死んだ時にお前の魂を俺によこせ。」
と言った。師匠はそれが癇に障ったらしい。そもそも対価が高すぎるとも幼心ながらに思ったと言う。彼女は冷静になり、悪魔を無視して、木の影の方向から家の方角を考えて無事に帰ることが出来た。
こうなると面白くないのは悪魔の方だ。悪魔は師匠にまとわりつき師匠が少し困るたびに手を貸す代わりに魂をよこせと言ってくるようになったらしい。小さな怪我をした時も、分からないことがあった時も、棚の上のものが取れない時も。
師匠はその度にそれを自分で出来るようにした。師匠が何でもできる人なのはそのせいか。
「あの悪魔、ガチのストーカーですね?」
私の感想はそれだった。師匠はそれに笑って同意するのだ。けれどその後嬉しそうに笑って
「でも悪い悪魔じゃないのよ。根は優しいの。」
と口にするのだ。
「そんなに意地張るなよ。その上の段の本くらい、俺が取ってやるぜ?」
「それの対価が魂とかおかしいでしょ。」
「別に死後の話だぜ?今のお前には関係ないない。」
「うるさ……あっ!」
本を取ろうと台の上で背伸びをしていた少女の体勢が崩れる。少女は地面に叩きつけられる痛みを覚悟して目を固くつぶった。しかし、痛みはいつまで経っても来ない。疑問に思った少女が目を開くと、酷く焦った顔をした悪魔が見えた。それから一瞬遅れて悪魔が自分を受け止めてくれたのだと気が付く。これを契約にされたらたまったもんじゃない。そう思って文句を言おうと口を開こうとして
「お前!気をつけろよ!!人間は簡単に死ぬんだぞ?!怪我、怪我は?!生きてるか?!」
あんまり必死な悪魔に少女はつい笑ってしまった。
「笑い事じゃねえ!!」
「大丈夫よ。怪我してないわ。……それより、これで私の魂はあなたのものなの?」
尋ねれば悪魔はキョトンと目を丸くした。
「契約してないのにお前の魂が手に入るわけがないだろう。」
少女の魂を手に入れるためには少女の同意が必要らしい。つまり悪魔は損得関係なく、躊躇わず少女を助けたのだ。
「契約する気はないけれど、ありがとう。」
少女はその時、契約はしなくともこの悪魔を大切にしようと心に決めた。
師匠に家出の理由を話す。師匠は笑いながらそれじゃあ帰れないわねと言ってくれた。だから師匠は1人でも生きていける術を私に教えてくれた。
「そう言えば、私も住んでいた村には帰れないのよ。」
師匠はクッキーと紅茶を用意してそう切り出した。
師匠の年齢は両手でも数えられないくらいになった。師匠は育った村で魔女なのではないかと噂されるようになった。常に近くに悪魔がいる。年齢の割に色んなことを知っていて、色んなことが出来る。師匠は決して悪魔と契約をしなかったけれど、その努力を村人たちは認めなかった。
「だから村を捨てたの。」
師匠はあっさりそう言うけれど、それは大変なことに違いなかった。でも師匠は本当にあっさり、しかもどこか嬉しそうにそう言うから、きっと後悔していないのだろう。師匠が作ってくれたクッキーを口に運べば優しい味がした。
悪魔は気まずそうに村人から邪険に扱われる少女に言った。
「俺は、お前と契約をしたい。けど、どうしても嫌なら、契約を諦めて、もう二度と現れない。」
気を緩めたら泣いてしまいそうな途切れ途切れの言葉だった。少女はそれにため息をつく。
「私はあなたと契約しないわ。」
悪魔がびくりと体を跳ねさせる。
「けど、私は、あなたが嫌じゃないならあなたと居たいの。」
目を見開いた悪魔を見て少女は面白そうに笑った。
「私は、あなたと一緒にいるためならこの村を捨てるわ。どこへだって、どんな遠くへだって行く。」
悪魔は貫かれても死なない心臓を鷲掴みにされた心地がした。そんな隙だらけの悪魔に少女は手を伸ばす。
「契約とか関係なく、嫌じゃなかったら、私と一緒にいて。」
師匠はこの森に来た時、遠くへ来たものだと思ったらしい。私も同じ感想だ。森の中、人目にあんまりつかない辺境の地。それでも時たま見かけた人間が師匠を魔女だと噂する。一人でも生きていけるくらい強い師匠は異端に見えるらしい。魔法が使えなくても知識で全てを補って生きていくその姿は、私にも不思議に思えるくらい。
「はい。味見してくれる?」
「契約か?」
「ただのお願い。嫌なら良いのよ?」
「するする!!」
視界の端で夕ご飯を作る師匠と悪魔が戯れている。師匠は3人分のご飯を作って皆で揃ってご飯を食べた。
悪魔はいつも師匠の隣にいた。
師匠は悪魔と笑っていた。
私はそれを見て、師匠から色んなことを教えてもらって、
季節がぐるっと1つ巡って、2つ巡って
大分季節が巡って、赤や黄色の葉っぱが地面をフカフカにする頃――――
「もう大丈夫。もう……あなたは1人で生きていけるから。」
師匠がそう言って力の入らない手で私の頭を撫でてくれる。私は泣きながら頷いて、師匠の部屋の外に出た。
私は、違う。師匠と最期に話をするべきは、きっとあの悪魔なのだから。2人で話して欲しかった。だから部屋を出た。それなのに、師匠とのお別れが辛くて、扉の前で座り込んでしまう。
部屋の中から師匠と悪魔の声がする。きっと、それは最後の会話だ。
「どうして契約してくれないんだ。」
悪魔の声は湿気を多分に含んでいる。泣いていたのかもしれない。それに対する師匠の返事は笑い交じりだった。
「私、あなたに主導権を渡したくないの。」
可愛らしい少女のような口調で。
「だって!このまま死んでしまったら、お前は遠くへ行ってしまう。もう一緒にはいられない!」
悪魔は叫んでいた。悲痛な叫びだった。
「でも、それじゃああなたが今まで契約してきた人たちと同じでしょう?逃がした魚は大きいんだって思われたいじゃない。」
師匠の声はどこまでも穏やかだった。
「お前は、死んでからも俺と一緒に居たくないのか?」
泣きそうな、懇願するような声色だった。
「居たいわよ。だって私……この一生のほとんどの時間、あなたのことが……こんなにも好きだったんですもの。」
弱弱しい声が、伝えたいことを伝えきる。
「俺だって、俺だって!!好きだっ……!!こんな時に言って、しかも過去形にして!!」
悪魔が泣いている。抑えようとしても抑えられないみたいだった。それにつられて、私も更に涙が溢れてくる。
「そんなに言うなら、1つお話があるの。」
小さな、静かな声がした。師匠の声だ。今にも消えてしまいそうなくらい弱弱しいのに、意思ははっきりしている声。
「話?」
悪魔が泣くのをやめて耳を傾けるのが分かった。
「そう、契約の話。」
「契約をしてくれるのか?!」
「そう。だけどね、条件があるの。」
「条件?」
「あのね、あなたの魂を、私にちょうだい。」
部屋から一瞬、音が消えた。そのあとすぐ悪魔が戸惑う声がする。
「お、俺の?!」
「あなたの魂を私にくれるなら……死んでからも私が一緒に居てあげる。」
満足そうな優しい声。その声で私にはわかってしまった。
師匠は、この瞬間を待っていたのだ。
「え?ええ?!」
「私が……死ぬ前に、決め……て。」
今際の際、悪魔に考える時間を与えずにこの契約を結ばせるために。
「あー!!?もう!!わかったよ!!その契約!結んでやる!!」
師匠は死んだ後も大好きな悪魔と一緒に居るために、彼女の人生を賭けたのだ。
部屋が静かになって、扉を開くと、そこには誰もいなかった。師匠も悪魔も。元からこの家に私だけがいたかのようだった。私は1つ、息を吐く。
「遠くへ行っちゃったんだなあ。」
どうか、お幸せに。
恩師が死後も幸せであるようにと手を合わせた。
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