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闇の八咫烏--012日目
「この町は、腐りきっておるわ。このままでは、佛の道を後ろ盾に、民衆を隷属する。更に朝廷への賄賂による支配が、まかり通るは必定。捨て置けば、腐敗政治が天下を席巻するのは明白なり」
と、信長は激高し、現状を強く危惧していた。権力争いで険悪な関係にあった将軍・足利義昭と織田信長。
義昭は、越前の朝倉、北近江の浅井に手を回し、石山本願寺と気脈を通じる。それに、比叡山延暦寺も乗っかった。
岐阜から京都へ向かう時の大きな合流点、それが延暦寺のある坂本付近。諸国大名、黙らせて、朝廷、牛耳る夢を見る。それには、京都への進行のために街道を奪うだけ。それを守るは僧兵たち。権威を嵩に某邪気無人。僧侶にあるまじき行いばかり。比叡山は仏様の聖地、嫌々、腐敗の巣窟と化していた。
比叡山は、院生・堂衆・学生・公人で成り立つの四階層。腐敗の中心、最下層。それは、僧兵(公人)、糞坊主。仏の信仰には逆らえず、それを分かって、横暴極まりなし。抵抗出来ないのをいいことに、山領の年貢の督促に容赦なし。有事になれば、黒衣を纏い、白い布を頭に巻き、武器を手に手に、日吉大社の神輿を担ぎ出す。都大路を練り歩き、挙句の果てには、要求、通るまで、嫌がらせ。神仏への、恐れや尊い心は何処にいったか。
比叡山領の横領に端をなし、信長と比叡山が対立関係に。天台座主が朝廷に泣きついて寺領回復を図ったはいいが、信長、それに従わず、水の泡。
元亀元年(1570)6月28日、姉川の戦いで信長は、朝倉義景を討伐。辛うじて生き延びた義景は、直様、浅井長政と同盟結び信長に牙を剥く。8月26日、野田城・福島城の戦いで信長、背後を取られて大苦戦。何とか形勢、逆転し、敵をエイヤエイヤで後退させる。追い込まれた浅井長政・朝倉義景連合は堪ったもんじゃ御座いやせん。比叡山に立てこもり、攻防を繰り広げるも形勢は悪化の一途、この場を何とか凌ごうと朝廷に助けを求めます。何とか、正親町天皇の調停により、信長との和睦へ漕ぎ着ける。一筋縄で行かぬ戦。和睦を持ちかけておいて信長を安心させ、その裏で浅井長政・朝倉義景は、自らの連合に加え、甲賀の六角義賢、摂津・河内の三好三人衆と合流し、京都奪還を企てていた。表で和睦、裏では反撃。何を信じて良いのやら。
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