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カチャカチャと器具をセットする音が、控えめなBGMが流れる店内に心地良く響く。
コポリ、と挽きたての珈琲豆に最初のお湯が染み込むと、この狭い空間は一瞬で深く、甘く、そしてビターで芳醇な香りに包まれる。
いつの間にか手の動きには淀みがなくなって、一見さんなら"期間限定 店主(仮)"だとは誰も思わないであろう。
「 ありがとうございました! 」
今日も最後のお客様をお送りして、古臭い入り口の扉から既に日が落ちて暗くなった空を見上げた。
厳しかった残暑も鳴りを潜め、この地下に届く風にも濃い秋の匂いが感じられる。
一度深く深呼吸して、扉にぶら下がるプレートくるりと返し扉を閉めた。
手早く後片付けを済まし、ドリップの器具やカップを丁寧に元の位置に戻す。
一連の流れは既に体に馴染んでいて、滞りなく閉店作業を終えた。
「あ、そうそうこれも忘れちゃいけない 」
冷蔵庫から大きめな物と小さめなタッパーを一つずつ取り出し、魔法瓶のポットも一緒にトートバッグに詰め込む。
戸締まりをして外へ出ると、すっかり相棒となったママチャリで、駅に向かって颯爽と漕ぎ出した。
「えー…と…、 あ、いたいた 」
日野原駅のいつもの駐輪スペースに愛車を停め辺りを見回すと、駅前の端っこにその姿を見つけた。
今日は女子の人だかりは出来ていない。
ヘルメットを脱がないと言う技が、近頃の涼しさでやっと使える様になったらしい。
帰宅ラッシュの人波を縫って小走りで近づく。
最近はどうも自然と表情が緩んでしまう様で、自身でもはっとした時に頰を手で挟んで、無理やり矯正したりしている。
今も走りながら唇をぐいーっと引き締めたりしてみたが、あまり上手く行った感じはしない。
なんせ今日は約10日振りの再会なのだ。
「海星君!」
フルフェイスヘルメットで表情は見えないのに、ふと笑われた気がするのは、勘違いでは無い気がする。
佳乃の顔がゆるゆるに緩みきっていたに違いない。
一度ポンと頭に手を乗せられ、いつも通りヘルメットをすっぽり被せられた。
走り出すまでの流れがスムーズになるくらいには海星の後ろに乗り慣れた佳乃だが、やはり発車する時は緊張する。
叫びこそしないが、歯を食いしばって頭の中では未だに控えめな雄叫びを上げている。
街のギラギラした光の中を、海星と共に駆け抜け駅の裏通りへ入って行くと、表とは完全に用途が分けられた世界が広がる。
ゆるい坂道。
ゆったりとした歩道を照らす沢山の外灯。
高いフェンスに護られた校舎。
ふと胸に湧く感傷は、学生時代という誰にでもある漠然としたノスタルジーだろう。
海星に回す腕に少しだけ力を入れた。
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