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「ちょっと駅まで送りに行ってくるから、中で待ってて」
「誰なの?その人のせいなの?」
「やめろよ。親戚の子。早く入れって」
先生の言葉に、女の人が中に入ってくるのが分かった。俺は食器棚の側面と壁と先生の背中とで出来た三角スペースに挟まれてじっとしてた。
「行こっか」
先生の背中が動いて、ふっとスペースにゆとりができる。室内を振り向きたい衝動が突き上げたけど、きっと先生は嫌だろうと思ってぐっと我慢した。
先生が玄関のドアに鍵をかけた後、黙って並んで歩いてたけど、全く触れないのもどうかと思って「彼女ですか」ってそっと訊いた。
訊けたよ、瑞希。思ってたようなシチュエーションじゃなかったけど。
「や、違う」
先生はそれきり口を噤んだ。『じゃあ、誰?』とは……訊けなかった。
「ありがとうございました」
駅前のロータリーに着いて俺は先生の方を向いて頭を下げた。
「悪かったな、急かして。来週は?まだ来んの?」
「えっと……明後日から集中講座で、2日までは夜も授業があるんです……」
「へぇ、そりゃ頑張って」
いつもなら……このまま帰ったはずだけど。
「先生。あの……お正月、こちらにいらっしゃいますか」
さっきの女の人が漂わせていた特別な関係を匂わせる空気感に胸がざわついて仕方なくて、いつの間にかそう口走ってた。
「ああ。別に特に予定はねえけど」
「あの……初詣、行きませんか」
「え、お前と?」
先生のその言葉にはっとして、でも今さら引っ込められなくて俯いた。
「俺、人混みキライなんだよなぁ……」
頭をぽりぽり掻きながら先生が言ったから、
「あ、いいですいいです。ご一緒出来たらって思っただけで……」
と手を振って、慌てて店じまいをするようにおやすみなさい、と頭を下げた。
そしたら先生はふにゃっと相好を崩して、「引くのはえーな。むしろ行かせろよ」って可笑しそうに俺の二の腕を叩く。
「え……あ、良いんですか?」
「うん。ここ数年正月に行ってねえし。いいよ」
なんか一気に開けたみたいに嬉しくなった。それは思いっきり顔に出てたみたいで、先生は「お前……」って体を折り曲げて笑った。
先生と別れてからもなんだかどきどきして口元が緩みそうで、俺はしきりに手を持っていったりスマホで気を紛らせたりした。
きっかけになった女の人のことなんか……どこかに飛んで行っちまってた。
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