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傷
先生は次の週もその次の週も、一度も自分からは話さなかった。
俺が話しかければそれに返してはくれるけど、もうほんと必要最小限って感じで。
俺はだんだん自分ばっかり話しかけてるって状況に腹が立って来て、1か月過ぎたあたりで我慢できなくなってついにそのことを切り出した。
「先生さ。そんなんで世間を渡っていけるんですか。社会人でそんなんじゃ困るんじゃないんですか」
急に話しかけられてぴくっと震えた先生は、言われたことを考える様に目を半分くらい開けてじっとしてた。
「どーゆーこと……」
「確かに静かにして俺に口出さないでって要求を出したのは俺ですけど……普通、多少の世間話はするもんなんじゃないんですか。それがコミュニケーションってもんでしょ」
俺が机に頬杖をついて横を見やると、先生が、どきっとするような冷たい目をして「何言ってんだよ」と低く言った。
「お前がそうしろって言ったんだろ。人のほっぺた札束で叩くような真似してさ。
まぁ俺に取っちゃあオイシイ仕事だし?世間話をするってのが仕事だって言うんならそうするけど」
いつものふわっとした雰囲気をがらりと変えた先生に突然切りつけられて、俺は二の句が継げずに先生を見つめ返した。
「どうなの。士央クン?黙ってればいいのか、喋ったらいいのか」
「いえ。なんでもないです。もういいです」
俺は目線をもぎ離して机に広げたノートに向かった。
認めたくはなかったけど、傷ついてた。
突然向けられた冷たい表情にも、自分のしたことを蔑まれていることにも、かけらも好意を持ってもらってないことにも……
父親は俺の祖父が興したそこそこ大きい会社を継いだ二代目社長で、社長令息たる俺は昔から周りの大人にちやほやされて育った。
ちやほやされんのが好きな人間に取っちゃあ最高の環境だったと思うけど、生憎俺は裏表に敏感な子どもだった。
母親をはじめとする周りの大人たちの顔色を窺いながらの会話が寒気がするほど嫌いで、父親の会社を継ぐことだけは絶対嫌だと思い続けてきた。
だってほんとにいなかったんだ、先生みたいな人は。大人ってそんなもんだと思ってた。
初めて……軽蔑の視線を向けられた。
俺が出会ったことのない大人に。すごく興味を惹かれる人に……
「じゃあ、また来週」
玄関で俺と母親に見せるウソの笑顔。
でも……今まで見てきた俺に媚びるウソの笑顔のように嫌悪感がないのが何故なのか、俺には分からなかった。
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