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「HEY! 優! 元気にしてたか?」 「…………」  シンプルに必要最低限のものだけが備えられた無機質な病室に、黒い肌に太い金縁のサングラスをし、キャップを斜めに被った男が現れた。日本ではあまり見られない高身長に筋肉が乗り切った太い体格。白いTシャツに金色のネックレス。指にごつい指輪をはめた手に持つ、淡い色の花束はミスマッチ過ぎた。  ……やっぱり個室で良かった。リョータは目立つから。 「心配したよ! 優! なかなか返事くれないから!」 「……うん」  それどころじゃなかったからね。久しぶりにリョータに会えて、泣きそうになったがこらえた。なぜなら久保田もここにいるからだ。 「元気ないな! ちゃんとご飯食べてるか?」  食べてないよ。薬は聞いているもののわずかな頭痛が続いてるし、またお腹も痛くなってきて食べられなかったんだ。食べてないから力が入らないんだよ。しかしそれを説明することもできなかった。 「どうした? 顔色が悪いじゃないか!」  うん。入院中だからね。  リョータにそう答えてやりたかったが、あまりのテンションの違いに口が開かなかった。  リョータは俺の寝るベッドの右側に立っていて、久保田はその向かい、つまり俺を挟む形で左側に立っている。久保田は眉間に皺を寄せて瞳孔が開いたように目を見開きながら、リョータの顔をまっすぐ見ていて、すごく怖い。  すごく怖いよ。 「優? もう大丈夫なんだろ? だったら元気出しなよ!」  そんな久保田の緊張感に気が付いていないリョータは、花束を持ったまま両腕を広げ、肩をすくめた。なかなか生粋の日本育ちにはできない仕草だ。 「うん。ありがとう」  久しぶりに会ったリョータは何一つ変わっていなかった。リョータのノリに頑張って合わせようとしていた過去を思い出して、思わず苦笑いが出た。それも今となってはいい思い出になっていた。うん。思い出だ。 「そうだ」  リョータは俺のお腹の上に花束を置くと、ポケットから黒い塊を出した。よく見るとベルトが黒い革の腕時計だ。前にしてたやつ。懐かしい。 「これ優のだろ? なぜか俺の家にあったんだ。返そうと思ってさ」 「そっか。わざわざありがとう」  だから連絡をくれたのかな。  久しぶりに時計を腕にはめてみたが、針は数字を指したまま動かなかった。 「退院したら店にまた来てくれよ。優のことは親友だと思ってるからさ!」  リョータはそう言ってウィンクをした。 「うん」 「優、この前誕生日だっただろ?」 「うん」  頷くとリョータはハッピーバースデーを歌い始めた。声が大きすぎてつくづく個室で良かったと思う。リョータが手拍子とともに歌うハッピーバースデイは、久保田の呪いのようなのとは違って、みんなをハッピーにするような明るくて華やかなものだった。  歌い終わると、リョータは俺と握手をし、眉間に皺を寄せ瞳孔が開いたままの久保田とも朗らかに握手をすると、大きな手を振り、高々とアメージンググレースを歌いながら病室を出て行った。  すると病室は祭が終わったあとのように静まり返った。 「…………」  久保田が無言で俺の手首から時計を取り上げた。 「壊れてますね」  俺はリョータを真似て軽く肩をすくめ、なるべく明るい声で返した。 「引っ越しの時に壊れたのかな?」 「二年以上前のものを今さら届けに来ます?」 「忘れてたのかな?」 「二年以上会っていない元恋人が親友ですか」 「リョータはあんまり細かいこと気にしないから。あれはただの口癖だから」  リョータの知り合いはほとんど親友だ。 「田村リョータ。日本名ですがアメリカと日本のハーフで日本生まれで小学校から高校までアメリカ育ちでしたっけ」  さすが久保田はリョータのこともよく知らべ上げている。 「中身はほとんどアメリカ人だよ」  アメリカ人だからってみんながああとは限らないけど、他のアメリカ人知らないし。 「彼の店で知り合ったんですか?」 「うん」 「輸入雑貨の店長兼ラッパーですよね?」 「うん」  聞かなくてもよく知ってるくせに。 「何か得体の知れないガラクタばかりが置いてある店に見えましたが」 「行ったの?」 「前を通りがかっただけです」 「…………」  久保田のことだから間違いなく、偶然前を通りがかったわけではないだろう。 「あんなのと付き合ってたんですね」  久保田のその言い方にむっとした。 「……あんなのって。リョータはいい奴だよ。優しいし、裏表ないし」  どれだけリョータの明るさに救われたことか。 「あなたを捨てたんですよね?」 「俺が悪かったんだよ」  俺がリョータの明るさに頼り過ぎてしまった。むしろリョータの楽しい人生に水を差してしまったことの方が辛いぐらいだ。 「一年だけ一緒に住んであなたを見限ったんですね」 「そうだよ」  俺にとっては貴重な一年だった。  こんなに毎日楽しく生きている人がいるんだと知ることができたから。リョータといれば嫌な仕事も明るく楽しく乗り切れるんじゃないかと思った。そんなことはなかったけど。 「パートナーなら相手が苦しんでいたら心配して一緒に悩んであげるものでしょう」  久保田の言葉に思わず笑ってしまった。 「結婚するわけじゃあるまいし」 「僕はそういう刹那的な生き方は理解できません。僕はあなたに何かあったら必ず助けますよ。逃げ出したりはしません」 「…………」  表情を隠すため、布団を鼻まで上げた。 「なんですか?」 「……重い」  だって興信所を使うとかやっぱりおかしいし。人のスマホ勝手に見るし、元カレ調べ上げてるし、やっぱり頭おかしい。 「…………」  久保田が眉間に皺を寄せたまま、目を閉じ、顔を上げた。 「僕はあなたに好きな人ができたらちゃんと身を引くつもりですよ。あなたの幸せを一番に考えていますから」 「嘘だ」  にわかには信じがたい。そんな奴は人に好きと言っておきながら脅したりはしないと思うからだ。  久保田は眼鏡の中央に指を起き、まるで自分が脅されているかのように、わざとらしく顔をしかめながらため息をついた。 「……そうですね。心ではそう思ってますが、自分でも信じられません。あなたに優しくしたい気持ちと、あなたを思い通りにしたい気持ちがせめぎ合って苦しくなる時があります。理性を保つことがこんなに辛いとは思いませんでした。こんなことは初めてです」 「…………」 「人を好きになるって自分より大切なものができるってことなんですね」  そう言って久保田はもう一度、本当に苦しそうにため息をついた。 「…………」  その年でやっとそれに気がつくって、今までどんな付き合い方してきたんだ? こいつは。  恋人を大事にしたことがないのか?  やっぱり久保田はヤバい。ヤバい奴だ。早く逃げ出さなければ俺は本当に久保田の思い通りにされてしまうだろうと思った。  やっと頭痛もおさまって食事も普通に取れるようになり、明日退院という日に、村上と森田が見舞いにやって来た。  村上は穏やかそうな笑みを浮かべ、果物が入った籠を持っていた。猫目の森田は相変らず嫌そうな顔だ。そんな目で見るのに、なんで来たんだろう? 「野坂さーん。早く戻ってきてくださいよー。野坂さんがいないと職場が殺伐として辛いんですよー」 「殺伐?」  昼間はほとんど人がいないはずなのに。 「散らかり放題だし、観葉植物は枯れかけてるし、コーヒーも飲めないし。ほら、野坂さんがいないと男しかいない職場になっちゃうから」  俺も男ですけど? 「殺伐とさせてんのは久保田さんだけだろ」  森田がつっけんどんな口調で言った。村上はその口調に気づいていないかのように、俺を見て頷いた。 「たしかに。久保田さんが野坂さんの代わりをしてるんですけど、なんか久保田さんには頼みづらいんですよ。あの人いろいろ分かってる分、あら探しとかしてくるんですよ。言い方もきついし。みんな早く野坂さんに戻って来て欲しいって言ってるんですよ」 「…………」  そっか。それでなくても久保田は自分の仕事で忙しいのに、俺の仕事までさせているのか。だから職場でイライラしているのかもしれない。  村上が俺の両手を握り込んだ。 「俺、野坂さんがいないと会社辞めてしまうかもしれません。お願いです。必ず戻ってきてくださいね!」 「は、はい」  言われなくても明日には退院して来週には戻るのに。村上は森田に止められるまで俺の手を離さなかった。 「誰か来ました?」  仕事帰りでスーツ姿の久保田が、目ざとくテーブルに置かれた村上の果物の籠に気が付いた。 「村上くんと森田くん」 「…………」  久保田は籠を持ち上げると、すぐに興味なさそうに戻した。 「暇だと思っていろいろ買って来ました」  久保田は雑誌が入っているビニール袋を俺に渡した。 「明日退院だからいいのに」  男性向けファッション誌が何冊か。表紙が黒人ラッパーの外国の雑誌もある。どうやら好きな男のタイプとして誤解を与えているようだった。 「あの」  久保田に声をかけると、久保田は椅子をベッドの横に置いて座った。  もうすぐ面会の終わる時間だ。明日は午前中には退院になるから久保田には会えないだろう。だから今言っておこう。 「仕事増やしちゃったみたいですみません。来週から仕事に戻ってちゃんと働きます。それと入院費は、少しずつですが、必ず返しますから……」  ベッドに座ったままだったが、丁重に深く、頭を下げた。 「……野坂さん。こんな惨めなことは言いたくないのですが」 「…………」  なんだ? 今まで奢らせた分も全部返せって? そりゃそうだよな。俺でもそう思う。散々今まで甘えたんだから。  ためらいがちに頭を上げると、久保田と目が合った。 「キスだけさせてもらえません?」 「はっ⁉」 「お礼も謝罪もいりません。キスだけでいいんです。そうすれば僕はあなたに何を言われても許せる気がするんです」 「……許すって」 「あなたをここに入院させると決めたのは僕なのであなたが払う必要はありません。僕をそんな情けない人間だと思ったんですか? とても許せません」 「…………」  徐々に久保田の顔が近づく。俺は反射的に頭を後ろに下げた。 「あなたが甘えてくれれば僕はなんだってするんです」 「…………」  やめてくれ。 「大丈夫です。僕は逃げたりしませんから」 「…………」  なんで俺みたいな人間にそんなこと言うんだよ。 「大丈夫です。もう心配いりません」 「…………」  なにが? こわいよ。 「あ、そうだ。昨日野坂さんのお母さんと話しました」 「え?」  久保田が顔を突き出したまま、突然話を変えた。 「お母さん、職場を変えたこと知らなかったんですね。丁寧に説明して上司として挨拶をして、ちゃんとご理解を頂きました。もちろん、入院のことは言ってませんよ? 今度そちらにお邪魔したいとは言いましたが」 「…………」  呆然としている隙を突いて久保田にキスをされた。 「…………」  あまりのことに俺はさらに呆然とした。  ……こいつ、勝手に人の親と話したのか?  しかも今、隙を突いてキスまでした?  ……信じられない。  俺はいつも行動に移すのが遅くて、失敗をするんだ。だから、早く、こいつから逃げ出さなきゃ。
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