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1-1
夏が終わって、冬が来る前の穏やかな時期。
上には眼科クリニック、下には皮膚科クリニックが入っているビルの三階。業務用家具メーカーの営業所。営業と事務員しかいない小さなオフィス。
俺はそこに居座り、あくびを噛み殺していた。
雨上がりだからか、心なしかきれいに見える窓から青空が見える。その青空も夕方が近くなり、陰りを帯びていた。
「野坂さん、これお願いします」
「はい」
背中合わせの位置に座り、振り返りもしない男から書類を受け取った。手書きされた書類を見ながら数字を打ち込み、請求書を作って印刷し、男に受け取った書類ごと返した。そしてまたあくびをこらえた。こんなアナログで誰でもできる仕事が未だに残されていることに感謝しながら。
「野坂さん」
また後ろの席の男に声をかけられた。平坦ではあるが、柔らかな口調。
「はい」
「お昼ごはん食べました?」
「はい」
とっくに。
「そうですか。僕まだなんですよ」
「そうですか」
「…………」
背中と背中の間を沈黙が通り抜けた。
「……あ、コーヒー、入れましょうか」
立ち上がり、コーヒーメーカーへ向かう。朝にセッティングしておけば紙コップを置いてボタンを押すだけでコーヒーが出てくる。そのセッティングも俺の仕事だ。
フロアの床掃除も俺の仕事。ゴミ箱のゴミを集めるのも俺の仕事。観葉植物の水やりも俺の仕事。たまに眠気覚ましに鼻歌を歌いながら社員たちの机を拭いてやるのも俺の仕事だ。俺の単純作業によってピカピカを維持しているオフィスは居心地がとてもいい。
ボタンはブラックとカフェラテの二種類。迷わずブラックのボタンを押し、左手に紙コップを持ち、右手にシュガースティックとマドラーを持ち、机の端に置いた。ついでにコーヒーメーカーの横に置かれていた誰かのお土産のフィナンシェも添えて。こんなことさえ楽しい。
「……ありがとうございます」
副所長の久保田が縁のない眼鏡をかけた横顔で、机に置かれたコーヒーを見た。
「野坂さん」
「はい?」
「せっかく頂いたのに申し訳ないのですが、僕はカフェラテの方が好きなんです」
「……あ、すみません。替えますか?」
「いえ、いただきます」
久保田はそう言うと、紙コップを持ち上げ、ブラックコーヒーを一口飲んだ。俺はまた久保田と背中合わせの席に座った。
「野坂さん」
「はい」
また背中から声が掛かった。
「いつも社内にばかりいて退屈しませんか?」
「え?」
「息抜きに外に出たくなったりしません? 外回りに付いていきたいとか」
「いえ?」
滅相もない。
「そうですか」
「…………」
また沈黙が降りる。俺はこっそり引き出しからスマホを取り出し、ゲームを始めた。ありがたいことに退屈で退屈で仕方がないからだ。今日も百円課金してしまった。あー明日からどうしよう。
またあくびをこらえた。こんな仕事でも社会の歯車の一つになれていることに感謝しながら。
今日もあと二時間で仕事が終わる。そうしたら、まずはスーパーに寄ってから家に帰って、夕食を作って食べる。そのあとは今日も平穏に一日が終わったことに感謝しつつ、この生活がいつまで続けられるかという不安には目をつぶって、しっかりと良質な睡眠をとるだけだ。
「野坂さん」
また背中から声が掛かった。久保田も今日は仕事が暇なんだろうか。でもこの時間に昼食をとっていないということは、忙しいんじゃないのか?
「はい」
「今日時間あります?」
「え?」
振り向くと、やはり久保田はこちらを見ておらず、整えられた襟足と上着を脱いでYシャツ姿になった肩幅の広い背中があった。
「……なんでですか?」
「少し話したいことがあるんですが」
「……え?」
「仕事が終わったあと少しでいいんです。時間を作ってもらえますか?」
「…………」
久保田は俺みたいな奴にも気を使ってくれる親切な上司だ。しかも大人しくて人畜無害。そんな久保田が、あらたまって話したいこととは一体なんだろう? 全く見当もつかなかった。
定時に仕事を終えると、真っ直ぐ家に帰って、ほぼ毎日着ている着古したパーカーに着替え、インスタントラーメンを作って簡単に夕食をすませた。それから久保田との待ち合わせ場所に向かった。
なぜか待ち合わせ場所は家から一番近いファミレスだった。会社の近くでも良かったのに。歩いて向かうと、久保田はすでに窓際の席に一人で座っていた。スーツを着たままだ。テーブルの上には水が二つとA四サイズの茶封筒が置かれていた。
「すみません。遅れて」
俺に気が付いて顔を上げた久保田が、腕を直角に曲げ、腕時計を見た。
「いいえ。五分前です」
「…………」
なぜ久保田が俺を呼び出したのか分からないまま向かいの席に座ると、久保田からメニューを渡された。
「好きなものを頼んでください」
「……あ、俺は、いいです」
「じゃあ、適当に」
そう言うと久保田は店員を呼び、六種のチーズのピザとドリアとわかめのサラダと若鶏のからあげと鯖の味噌煮を注文した。
「よく食べるんですね」
思わず感心してしまった。もしかして結局昼食は食べられなかったんだろうか? それなら相当腹が減っているだろう。
「…………」
久保田はなぜかそこで沈黙を守り、テーブルに両肘をついて顎の下で手を組み、俺を見たあと、おもむろにテーブルに置かれていた茶封筒に左手を乗せた。
「実は、野坂さんにお見せしたいものがあるんです」
「なんですか?」
久保田は封筒から一枚の紙を取り出し、俺に差し出した。
「あなたの一年間の動向を興信所を使って調べました」
「…………」
受け取った紙には家に入る直前の俺の写真が印刷され、その横に朝出勤のために家を出て、仕事が終わったあと家路につくまでの俺の動向が、こと細かく、時間経過とともに書かれていた。
「…………」
「野坂優さん、あなたは四年前に四年生大学を卒業し、最初に就職した会社で二年間システムエンジニアとして働いていましたね。会社の方も調べましたが、こちらはどこをとっても立派なブラック企業でした」
「…………」
「残業を山ほどやらされ、給料は雀の涙ほどしか貰えず、辞めたいと言っても辞めさせてもらえず、そこであなたがとった行動は、横領でしたね」
「…………」
「そのためあなたは強制解雇されています。まぁ、向こうも後ろめたいことがあったのでしょう。金は全部返したことで隠蔽されましたが、しかしあなたがしたことは立派な犯罪です」
「…………」
てっきり無口だと思っていた久保田がベラベラと喋り続ける。平坦気味ではあるが、柔らかな口調、しかし無駄のない話し方。初めて久保田の中にアンバランスさを感じた。どうしてわざわざ俺なんかを興信所を使って調べたんだ?
「野坂さん。まだうちで仕事を続けたいですか?」
「…………」
「それならあなたの仕事を査定する立場にある僕に従ってください」
「…………」
「僕と付き合ってください」
「は?」
聞き間違いかと思って聞き返したが、久保田はいたって冷静な目で俺を見つめている。
「あなたは会社をクビになったあと、同棲していた恋人と別れていますね」
「な、なぜそれを」
「恋人が出て行ったあと今のアパートに引っ越しをしています」
「……ちょ、ちょっと待って」
前の会社のことだけではなく過去の私生活のことまで掘り起こされ、自分でもわかるほどに動揺した。しかし久保田はそのまま続けた。
「その後あなたは一年間の倉庫整理のアルバイトを経て、うちの契約社員になりました」
「……ちょっと待ってください。どうして俺のことを調べたんですか?」
「好きになった人のことって知りたくなったりしません?」
「…………」
ここに来てやっと、久保田という人間の恐ろしさに気がついた。まさか自分の行動を普通だと言いたいのだろうか。
「あなたの仕事はうちでは本来、女性がやっていました。前にいた女性社員が突然辞めてしまったために募集をかけまして、相当数の女性からの応募がありました。それなのになぜ男性であるあなたが選ばれたと思いますか?」
「…………」
久保田は相変わらず顎の下で手を組み、縁のない眼鏡をした目で、真っ直ぐ俺を見つめている。
「なぜなら僕が面接官であり、採用担当だったからです」
「…………」
「社員からはかなりのブーイングがありました。みんなはっきりとは言いませんが、男性だらけの職場の中に一人女性がいることに安らぎを感じていたんでしょう。しかしそれを僕がジェンダーレス化という言葉でぶった切ってやりました」
「…………」
「実際今の時代に職業によって性差別があってはいけませんし、あなたが女性なら問題ないというのもおかしな話です」
ここで店員がワゴンに注文した六種のチーズのピザとドリアとわかめのサラダと若鶏のからあげと鯖の味噌煮を乗せてやって来た。店員はそれを全部テーブルに並べると、俺の助けを求める視線を無視して、そそくさと戻って行った。
「野坂さんの前職での行いは僕だけが知っています」
「…………」
「今の仕事は野坂さんにとってはだいぶ手緩いでしょう? 出世することもできませんし、お給料も少ないです。しかし、定時に始まり定時に終わり、誰も無茶ぶりをしてこない職場に感動しているんじゃありませんか?」
「…………」
「このまま今の仕事を続けたいでしょう?」
「…………」
「それに、僕もあなたにはまだ休息が必要だと思っています」
一見優しげな口ぶりだが、ぐいぐいと追い詰められ、潰されそうになっていた。まだ過去を暴かれた動揺も抜けていない。
「……それは、脅しというやつでは?」
「まさか」
久保田はこっちを見据えたまま、首をゆるく横に振った。眼鏡の反射も同時に揺れる。
「僕は知っていると言っただけで、言いふらすとは言ってませんよ?」
……こいつ。こういう奴だったのか。
「付き合うと言ってもですね、週に一度だけでいいんです。まずはそこから始めましょう」
「…………」
久保田はテーブルに肘をついて顎の下で手を組み、司令官のように俺を見ている。
改まって正面から久保田の顔を見ると、感情のない人形のように整った顔をしていることに気が付いた。整い過ぎていて怖いくらいに。
……久保田が俺のことを好きだって? 嘘だろ?
てっきり無口で親切で人畜無害だと思っていた上司に過去を暴かれ、しかもまさかこんな言葉を聞くとは思わなかった。
「まずは週に一度のデートから」
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