プロローグ

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プロローグ

 常闇の森には、生が溢れていた。  晩春、木々は旺盛に枝葉を伸ばしており、内側から仰ぐ森は、無数の木洩れ日が残雪のように小道を照らしていた。青臭く、全身がむずむずするような芽吹きの匂いに、(たける)は鼻をひくつかせて、木の背後から顔をのぞかせた。  父は、いつものように黒榊の前にいた。  天を衝くほどの巨木を前に屈む父は、大きな背中を向けて無心に何かを祈っている。陽光を独占する森の主の下で、薄明を浴びる父の体は白く輝いて見えた。 「尊だろ?」  背を向けたままの声は、笑みを含んでいた。 「一人で来たらダメだろ。いくら近くても、小さな子には危ないんだぞ」  口調とは裏腹に、父は笑顔で振り返った。   背後の木に隠れていた尊はたまらず駆け寄った。言いつけを守らなかった罰の悪さと、幸福に突き動かされて。 「なにしてるの?」  父の胸に飛びこみたい衝動はぐっと押さえて傍に並んだ。「尊はいつまでたっても赤ちゃんね」。先日、姉からかけられた言葉に、五歳とはいえ男のプライドを傷つけられたのだ。 「神さまにお願いしてるんだ。大事な願いごと」 「この木に、神さまがいるの?」  目を丸くして見上げると、大木の葉が空を覆うようにはびこっていた。薄い青を背景に、枝葉の影はより深味を増し、黒色の輪郭を鮮明に映している。森全体を包む生温かな晩春の空気の中で、目の前の木だけは、どこか冷たい気を溜めこんで見えた。平滑な灰褐色の幹も、てらてらと輝く硬そうな葉も、精巧な蝋細工のように作り物めいている。 「そう。神さまの力を宿した(くろ)(さかき)の木だ。元々は、尊よりも小さな木だったんだぞ。お月さまの光に惹かれて、その姿を追い求めた、小さな小さな木。他の大きな木たちに馬鹿にされても、人間に踏まれても、決して諦めなかった不屈の木だ。……こんなに大きくなって、夢を叶えたけれど、おかげで森には光が届かなくなってしまった。そのことに自分では気づけない、哀れな木だよ」  独り言のように述べられた父の言葉の意味は理解できなかったが、胸騒ぎに似た不安が渦巻いた。その間に、父はいつもの調子を取り戻して朗らかに問いかけてきた。 「尊なら、神さまに何をお願いする?」 「母さんに会いたい!」  間髪入れずに答えた尊に、父は笑顔のまま固まった。そうか、と呟いた声も、落とした視線も、幼児に失敗を悟らすには十分であった。 「ごめんな」  尊が言おうとしていた言葉を先に父が口にした。 「うちは本当に不完全だよな。母さんはいないし、俺は仕事仕事で……じいさんとも反りが合わないし、神社のことも色々……。尊も、お姉ちゃんも、幼稚園で色々からかわれて、俺が原因だよな」  ごめん、と繰り返した父は黒榊を仰ぎ、どこか遠くへと意識を飛ばしていた。同様に顔を上げた尊の目には、青空を掻き消すように広がる枝葉が何かしらの意志を持って揺れている風に映り、軽く身震いする。 「家族が全員、幸福でありますように。尊も、美琴も、じいさんも、――……も」  隣で唱えた父が最後に紡いだ言葉は、聞き覚えのない名前であった。  だれ?  そう口を開きかけたのと、父が向き直ったのとは同時だった。いつもの笑顔に包みこまれる。ぎゅっと握りしめた父の手は温かく、尊を見つめる瞳は弱々しくも微笑みを形作った。  緑陰から降る白い光が、父の笑顔を次第に霞ませていく。大きな体も、穏やかな眼差しも、やがて白色の世界に溶けていった。
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