第一戦

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 まだ存分に太陽が昇っている時間帯から夕食作りを開始した。  何かしていないと落ち着かず、とは言え、姉のように勉強などする気には到底なれず、与えられた役割をこなすことにしたのだ。  天性の才能だろうか、誰に教わったわけでもないのに、尊は料理が得意である。  亡き母が残した料理の本や、切り抜きを集めたファイルは、尊が受け継いだ。調味料の染みがついていたり、ページの端が折られている箇所は何度も挑戦したレシピなのだろう。母が生きていた証を辿るのは、ひたすらに幸福な時間であった。 「そんなに上手ではなかったかな」。母の料理の腕前について、父は冗談めかして笑う。  いいな。  母の手料理を記憶している父が羨ましい。  たとえ、どんなに不出来な料理であったとしても、それを囲んで皆で笑い合える時間が欲しかった。  夢想に浸りながら、何度もめくったためにくせが付いたページを開いた。そこには野菜の切り方や調味料の測り方など、基本的な内容が写真付きで掲載されており、尊にとっても大変役に立っている。  母もこれを見て練習したのかもしれない。  そう思いながら、父と姉のために料理を作ることは至極の喜びであった。  大根、白菜、人参、三つ葉……無心に野菜を切っているうちに、心に落ちた暗い影の色合いは徐々に薄くなっていく。 「うまっ」  完成した料理を味見する頃には、いつもの調子を取り戻していた。  着席した誉は、しげしげと卓上に見入っていた。 「お餅の追加は可能です。その際は、セルフサービスでお願いします」 「もち?」 「うん。今夜は、お雑煮だもん」  尊の言葉に、彼は再び丼に目を落とした。  ちょっと野菜を入れすぎたか。夢中になっているうちに、予定量をはるかに上回る、具だくさんの雑煮と化していた。 「正月でもないのにか?」 「予行練習だよ。作ってみたいと思ってたんだ」 「俺は毒見係、ってか」  さほど表情に変化を見せず、誉は両手を合わせた。姿勢が良い。すっと伸びた背筋は、洋服姿でも十分に見栄えがする。 「おいしい」  最初の一口で即座に述べられた声からも、やはり感情は読み取れない。食卓にはしばらくの間、食器の音だけが響いた。どれほど気まずい夕餉になるだろうかと、気を揉んでいたが、案外と叔父のことも沈黙も受け入れられた。  クッキーの押し型でくり抜いた花形の人参をつまみながら、神社での出来事を反芻する。  最も見られたくない現場を押さえられてしまったことで、却って気が楽になった。もはや、取り繕うことは不可能だ。  誉には、どう映ったのだろうか?  さぞ、情けない甥だと思われたに違いない。  春休みなのに、友だちと遊ぶでもなく、家族にも置いてけぼりにされ、暗いヤツだと認識されたよな。あ、家庭環境のせいで、いじめられてたって、父さんに告げ口されたりして……。 「なんだよ。言いたいことがあるならさっさと言え」  思案しながら無意識に叔父を見つめていた尊は、餅を詰まらせかけて目を白黒させた。目の前の叔父は、褐色の瞳を静かに向けている。 「誉はさ」 「あ?」  片眉を器用に上げた誉が、何に引っかかったのかわからずに、きょとんとした。 「あのな、俺はお前より十も年上なんだぞ。敬意を見せろ、敬意を」 「誉おじさん」 「……やっぱ、いい。呼び捨てでいい」  今度は眉根を寄せた誉を眺め、一呼吸置いてから質問を口にした。 「誉は俺と同じ目に遭ったことある? 片親とか、不気味な神社の子、とか言われてからかわれたりしたこと」 「面と向かってはないな。陰でコソコソ言うヤツはいたけど。顔も、成績も、腕っぷしも、俺に勝てる男はこの世にそういない。俺に向けられる悪意は嫉妬に裏打ちされてるから、ある意味、快感だった。ま、女はほぼ全員が俺の味方になるしな」  得意気な叔父から目を逸らし、残り一つとなった餅に食らいついた。……聞く相手を誤った。
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