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「あんたが、寝ぼけてるだけよ!!」
リビングで塾の課題に挑んていた姉は、顔も上げずに一蹴しただけだった。
くるくると四方に跳ねるくせ毛もそのままに、着替えだけを終えて報告にすっ飛んできた尊は、予想通りの反応に全力で主張を続ける。
「本当だってば! 隣のベランダに青いロングスカートがひらひらって舞って……。すごく綺麗な青色。たぶん、若い女の人のだよ。昨日、俺と美琴が学校に行ってる間に引っ越してきたんじゃない?」
ようやく顔を上げた姉は、大きな黒紅色の瞳でじっと尊を見つめた。勉強を邪魔されたことへの怒りは後回しに、憐れみにも似た笑顔を浮かべると、ふっくらと愛らしい桜色の唇を開いた。
「いい? 隣の家は、おじいちゃんが亡くなって以降、誰も住んでいないの。現在、名義上は息子であり、マンションのオーナーでもある父さんのモノ。つまり、他人が越して来るなんてことはありえないわ。売買したなんて話も聞いていないもの」
大人びた口調が癪にさわる。だが、姉の弁はもっともだ。昨冬、祖父が亡くなって以降、隣は空室のままで、時折、父が風通しに入るだけなのだ。
「だってさあ」
唇を尖らせたその時、不意の強風がベランダに面した窓ガラスを軽く揺さぶった。
「あ」
二人の声が重なり、窓の外に青色が翻る。風に飛ばされたスカートらしき物体が、スローモーションのように舞い落ちていくのが映った。
勝ち誇った笑顔で振り返ると、ちょうど姉ががばりと立ち上がった。大きな瞳は好奇心に見開かれて輝いている。
「隣の家に、行ってみよう!」
尊の手を取り、姉は元気いっぱいに提案した。
姉が先導する大冒険は、徒歩数秒の場所――お隣さん――である。
自宅と同じ小豆色のドアを前に、二人はしばらく思案顔で佇んでいた。
「どうするの?」
「とりあえず、呼んでみましょ。引っ越しの挨拶、ってことでいいわ。土地勘がなくて困ってるかもしれないじゃない」
「引っ越しの挨拶って、フツウ、越してきた人からするものだろ?」
尊が反論するより早く、行動力抜群の姉はすでにチャイムを押していた。
マンションの外廊下に直立して待つ二人を、三月にしては冷たい風が包みこむ。
「出かけちゃったのかな?」
「静かね。……でも、インターフォンが鳴るってことは、電気は通じてるのよね」
何事か思いついたらしき姉は、玄関脇にあるメーターボックスにびたりと半身をつけて耳をそばだてた。
「やめろよ。そういうの、よくない」
「音がするわよ」
跳ねるように戻って来た姉は尊を押しのけ、立て続けにチャイムを押した。
呼び出し音が微かに余韻を残す中、二人は互いを見つめ合うと、無言のまま家に戻ろうと向きを変えた。
「うるせえなぁ!!」
不機嫌な声とともに、玄関ドアが勢いよく開かれた。姉弟は兎のように飛び退り、互いに身を寄せ合った。
「何回も呼鈴を押しやがって。さぞ大層な用事だろうな? つまんねー案件だったら、ぶっ飛ばすぞ!!」
現れ出たのは、鮮やかなブルーのロングスカートが似合いそうな貴婦人ではない。尊も姉も、隣人の剣幕といでたちに唖然として、その場に石化した。
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