前哨戦

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 日に二度も隣家を訪れるはめになった尊は、うなだれながら呼鈴を押した。  照明が薄暗く灯る外廊下に佇み、反応のないドアをぼんやりと見上げる。 「はーい!」  快活な声と同時に勢いよく開かれたドアに、ぎょっと数歩後退した。 「あら、どこの子?」  出迎えたのは叔父ではない。スウェットに細身のジーンズを合わせた若い女である。艶やかなボブヘアが揺れる美女だ。 「甥だよ。隣に住んでるんだ」  女の背後から現れた叔父・誉の機嫌を測らぬうちに用件を済ましてしまおうと決意し、献上するかのようにチーズケーキの乗った皿を差し出した。 「あの、これ。父さんからの、差し入れ。食べきれないから、どうぞ」  いらねえよ。帰れ。  それとも、無言でシャットダウン?  鼓動の速まりを感じながら、叔父の一挙一動をひたすらに悪い方に想像していると、すっと長い腕が伸びた。 「ありがとう」  予想外の返答は、相変わらず感情の読めない低い声だった。女を連れこんだ現場を目撃されたとは思えぬ堂々たる態度には違いない。だが、少なくとも拒否的ではなかった。 (カノジョ、かなあ)  ケーキを受け取りはしゃぐ女からは、ふわりといい匂いが漂った。姉のキャンディーの残り香とはわけが違う。ぼんやりと大人の香りに酔いしれていると、女はとんでもないことを言い出した。 「私、直接会ってお礼が言いたい!」  その時の叔父の顔は忘れられない。  恐らくは、尊も同じ表情だったであろう。 「いいでしょ、すぐ隣だし。一度、ご家族に会ってみたかったの。誉、ちっとも紹介してくれないんだもの。行こう! ほらほら」  女に肩を押されるようにして、尊は帰宅の途――徒歩数十秒の自宅――に着いた。 「(まつ)()ちゃん」の効果は絶大だった。  見る間に生気を取り戻した父は、終始笑顔で弟と「女ともだち」をもてなし始めた。  姉はといえば、叔父たちの姿を見るや自室へと逃げこみ、またも尊は厄介な状況に一人取り残された。 「このお鍋、美味しい! 見た目もきれいだし。作り方、教えて下さい!」  場にふさわしい茉莉ちゃんの朗らかな反応に、父は目尻を下げっぱなしである。観念したのか、誉は黙々と箸を動かし、時折向けられる父からの質問にぼそりと短く答えるのみだった。  誉と茉莉ちゃんは、「高校時代の友人」という間柄で紹介され、その学校とは、県下随一の進学校である。  誉は祖母の生家で生まれ育った。  家族関係に亀裂が入り、身重のまま家を出たという祖母を、尊は知らない。双子が誕生する前に逝去した祖母が、あの祖父を相手に苦労したのは察しがつく。夫婦は一回り以上もの年齢差があったのだから、尚更だ。  妻に先立たれた父も、妻に愛想を尽かされた祖父も、味わった辛苦と孤独は共通していたはずだ。似すぎていたのか、あるいは、真逆の性格だったからか。相容れなかった親子の関係は、父にとって、そして、誉にとって、どう消化されたのだろう? あるいは……ちくりと刺さったまま抜けない厄介な棘のように、いつまでも疼くのだろうか?
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