前哨戦

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(俺、誉のこと、なんっにも知らないもんなあ)  存在を一応知っていただけで、思いを馳せたことなど一度もない。神社に祀られている神さまや、ひっそりと輝く春の星々のように、想像が及ばぬほど遠く、正直いてもいなくても大勢に影響はないと思えてしまう存在に近かった。  だが、父は違うのだ。 「お兄さん、通訳なんですよね。すごーい!」 「いや、俺も職業になるとは思ってなかったくらいで。縁があったのかな」  父の仕事が話題に上り、会話に参戦しないながらも尊は誇らしい気分になった。  通訳は通訳でも、スポーツ通訳士である父は、県西部に本拠地を置くプロサッカーチームの監督と個人契約を結んでいる。試合中継は欠かさずテレビで観戦し、父の勇姿を目に焼きつけるのは尊の何よりの楽しみであった。  父のボスであるアントニオは熱血漢であり、試合中はピッチの外で選手以上の存在感を示すことで有名だ。当然、通訳がベンチで高みの見物をしているはずもなく、監督同様に全身全霊で指示を送る父の仕事ぶりは、級友たちのからかいの種になるのが玉に瑕であった。 「誉は観に行くの? お兄さんのチームの試合」  茉莉ちゃんの何気ない質問に、誉は箸を持ったままぴたりと動きを止めた。数秒の沈黙を経て、彼はようやく薄い唇を開いた。 「俺と、この人は、そういうんじゃないから」  抑揚のない声からは、一切の感情を読み取ることはできない。尊の脳裏にはただ一言だけが突き刺さり、一気に全身の血が逆流した。  皿に叩きつけた箸が、きぃん、と耳障りな音を立てた。 「その呼び方、やめろよっ」  全員の視線を浴び、一瞬だけ怯んだ。 「ちゃんと、呼べよっ。兄さんなんだから……この人、とか言うな! 俺の――俺の、父さんを――」  堰を切ったように溢れる言葉に、自分自身で驚き、一つ大きく息を吸った。 「俺の家族を軽々しく扱うなっ!!」  尊の雄叫びは四方の壁を震わすほどの威力を発した。食卓についた両拳を見つめ、ひたすらに気まずい夕餉の後始末の付け方に、途方に暮れるしかない。 「いいんだ、尊」  隣に座る父の声は、いつもと同じ、穏やかなものだった。 「父さんと誉は、訳あって一緒の時間を過ごせなかった。今、こうして食卓を挟んでいるのも夢みたいだ。本当に驚いているんだよ」  言葉を切り、父は場違いとも思える笑顔を浮かべた。 「時間なんて、関係ない」  父は、自分自身に語りかけるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「呼び方なんて、関係ない。父さんと誉は兄弟だ。かけがえのない――家族だ」  まっすぐな瞳に射竦められ、言葉を失う。胸に押し留めた反発も、微かに生まれた後悔も、父には届かない。じゃあ、もういい。俺が謝れば――。 「悪かった」  沈黙を破った叔父の言葉は予想外のものだった。 「悪かったよ。――尊」  言い終えた誉は、にっこりと音が出そうな笑顔を浮かべた。  蛇に微笑まれた、いや、睨まれた蛙は、こんな心地に違いない。凍りついた尊はだが、叔父から目が離せなかった。 「(やまと)」  続けて、ねぶるように父の名を口にした誉は、どこまでも温和な声音で続けた。 「これからは、きちんと名前で呼ぶよ。それなら、いいだろ? ……尊」  いいわけない。  まさかの呼び捨て宣言に、即座に反論したかったが、張子の虎のように頷くしかなかった。  静まったままの食卓には、残りわずかとなった鍋がぐつぐつと煮詰まる音だけが落ちていた。
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