帰郷

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帰郷

この町に帰ってきた、どうしても逢いたい人がいたから。でも、逢いたいなんて言えない。 彼は私に音楽の楽しさを教えてくれた。 ここにこうして立っていたら、ギターケースを背負って自転車を漕ぐ彼に逢えるような気がしたから。 私の手はもうギターを弾かない。歌もめったに歌わなくなった。東京の人混みに疲れて足利市に帰ってきた。田舎に帰ってきても仕事の宛てもない。全部これから始めなきゃ。 どんなに待っても彼が来ないことは分かってる。だって彼は…。 橋の欄干に吸い寄せられる。このまま川の流れに呑まれたい。欄干をよじ登ろうとしたその瞬間、 「どこにもいかせねーよ」 絶対に現れないはずの彼に抱きすくめられた。なんで、ここにいるの?呆気にとられる。 「もう俺は行かなきゃいけないんだ。忘れろなんて言わない、でも幸せになってくれ」 「雅人がいなくちゃ私は幸せになれない。だから、そっちにいきたいの…連れてってよ、お願い…」 彼に抱きすくめられたまま泣き出し、最初は呆然と両手をだらんと下げていたのに、私は彼にしがみつく。 彼の背中には真っ白な翼が…。そう、もう彼はこの世にはいない。彼は天使の翼から一本の羽根を引き抜いて、私に手渡す。 「ダメだよ奈美。俺が生きられなかった分、喜びも悲しみも綺麗な景色も醜い惨事も、全部その目で見てきてほしい」 「いや、雅人がいない世界なんてモノクロ映画みたいで真っ暗、一人にしないで」 私は手渡された天使の羽根を打ち捨てる。真っ白な羽根は、橋の上を吹きつける栃木のからっ風に乗せられて、遠くに飛んでいってしまう。 「奈美。天国なんて生きてる人は言うけれどさ、実は死んだら何もない。あらゆる宗教は生きている人を励ますためにある、嘘の物語。死んだら真っ白な世界にただ取り残されだけ。もっと色々な物を見たかった。もっと奈美と一緒に音楽やりたかった。頼むよ、奈美。天寿を全うして、俺にこの世界を生きてきた証を見せてくれ」 私を抱きしめる雅人の頬には涙がつたっている。そのぬくもりは、生きている者と変わらない。私はしがみつくように抱きしめていた手の力を緩めて、雅人の背中を撫でる。 「わかった…雅人に話して聞かせられるように、良いことも悪いことも全部忘れないようにこの目に焼きつけておく。もし私がヨボヨボのおばあちゃんになっても必ず見つけて」 私は無理をして明るい声色で話す。 「絶対見つけるから、これを受け取って」 もう一度自分の翼から羽根を一本抜き取ると私に手渡す。今度はその羽根を受け取った。羽根を潰さないように、羽根の根元を指先でつかむ。すると雅人は、 「また逢おう、奈美。だいじだから(大丈夫だから)、俺はずっと側にいる」 「だいじ(大丈夫)…そうだね」 雅人は私に口づけをする。長い長いキス。 名残惜しそうに私の瞳を見つめてから、 「その羽根が再会の目印だから失くさないで」 私に告げると、彼は白い翼をはためかせて天へと飛び去って行ってしまった。 ―65年後― 「おばあちゃん、羽根ペン握りしめたままだったね」 孫娘が私の葬式で泣きながら、花を棺に入れてくれる。娘は白いハンカチで目尻を押さえながら、 「そうね。ずっと私は小説家になるんだ、死ぬまで諦めるもんかって言ってた。本当に無鉄砲な人だった…」 無鉄砲とは母親に向かって失礼な!まだ死にきれないね。わたしゃ、まだデビューしてないんだよ。小説家になりたいんだ、絶対なるって決めたんだよ。書きかけの小説の続きを…。 雅人が渡してくれた天使の羽根でペンを作ったんだ。カッコいいだろ?羽根ペンなんて。いかにも大物作家っぽいじゃないか。 原稿用紙が私を待ってるんだ。ほら、体よ動け、心臓よ鼓動しろ、目を見開け! おい、なんでピクリとも動かないんだ! わたしゃまだ死にきれないよ…。 孫娘が私の棺に羽根ペンも入れてくれる。 「おばあちゃんの小説、面白くて私は大好きだった。何回公募に落ちても、『賞金取るのが私の夢なんだ、いつか絶対取ってやる』っていつも結果を見て落ち込んでも、目を輝かせてまた小説を書き始めて」 孫娘の私の小説が面白いという言葉に、賞金は取れなかったけど、死ぬ直前まで小説を書き続けられたし、もう往生しようと諦めかけた。そこに娘が余計な一言を言う。 「そうね。負けず嫌いで粘り強くて。私もお母さんの小説好きだった。いつもオチが弱いけど書いてるときはとても楽しそうで…」 よくも言ったな~。やっぱりまだ死んでたまるか、小説の続きを書かなきゃ! 棺から起き上がろうとしたその瞬間、私の目の前に天使になった、あの日の雅人が現れた。 「奈美、迎えに来たよ。この世界で起きたことを僕に教えて」 あの秋の始まりの日と同じ姿で現れた雅人の姿を見て、初めて死んでもいいかと思えた。 私は雅人が差し出した手を取る。雅人が微笑むと、私の背中にも真っ白な翼が生えた。 まだ飛び方に慣れていない私を、雅人は手を繋いで支えてくれる。私は白い翼に力を込めて羽ばたいた。 「だいじだよ、すぐ飛ぶのに慣れっから」 雅人が隣で微笑むと、私はしわくちゃの顔で笑い返す。 「だいじ…雅人はいつも私が落ち込むと励ましたくれたよね」 「ほら、裏(後ろ)に渡良瀬橋が見えるよ?」 「本当だ…夕日を追い越しちゃったね、私たち」 孫娘が、閉じられた私のお棺の前でアルトリコーダーを吹いてくれる。私の好きな曲をあの娘は一回教えただけで覚えたんだよ。 凄い孫だろう?きっと将来は大物になるさ。作家というよりあの娘は私に似て別嬪だから、シンガーソングライターにでもなるよ。 私は孫娘の吹く音色を聞きながら、空の高い方へ高い方へと雅人と飛ぶ。 若き日の雅人との思い出は、色褪せずに私の心に残っている。 90年も生きてきたから雅人に話すことはたくさんあって、時間がいくらあっても足りないくらいさ。でも、生きている訳じゃないから、時間という概念に縛られることもなさそうだね。 たっぷりこれから話そう。 天使になった雅人と渡良瀬橋で別れた後の日々の出来事を。 雅人が見られなかった景色、 聞けなかった音楽、 そして私の下手くそな小説の話も。 そして、二人でまたギターを弾いて歌う。 懐かしいあの曲も、二人で作った曲も、雅人が亡くなってから流行った曲も。65年分の名曲を全部私が教えてあげるから。
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