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第一章 七十五年後の君へ その二
すると突然、尋ねてきた老人は重々しく、右手を額に持っていき敬礼をした。
それは陸軍とは違い、狭い艦内でも敬礼が出来る様にこじんまりとしている海軍の敬礼である。
「起動弁良し、燃料中間弁良し、応急ブロー弁良し」
老人の言葉をきいた瞬間、兎澤の目に涙が流れた。
「まさか、あなたは……」
「続きを忘れたのか? 兎澤一等飛行兵曹」
「いいえ、いいえ。まさか。一日たりとも!」
兎澤は涙ぐんで告げる。
「海水タンク中間切り替えコック良し、内圧排気弁良し、気筒溜水排除弁良し、こちら三号艇いつでも……佐野整備兵曹長! まるで夢をみているみたいです、一体どうしてここに!」
「ははっ。突然元気になるのは昔っからだな。おい、座らせてもらうぞ」
佐野と呼ばれた老人は、看護師の前にあった椅子にどっかりと腰を下ろす。
「あのあと、佐野さんのことを必死に探していたのです。けれど見つからなくて……。いや、佐野さんだけじゃない。あの頃のみんなはどうしても探すことが出来なくて」
「戦後この国はバタバタしていたからな。おれも故郷を離れて新潟の復興を手伝っていたよ」
「そうだったのですか……。でもよかった。まさか死ぬ間際に佐野さんに会えるとは」
「こらこら。まだ死んでもらっちゃ困るぞ。貴様さんにはやってもらわなきゃいけないことが沢山あるんだから。今日はそれを頼みに来たんだが……」
佐野は一息つき、枕元の写真を手にとった。数名の男性の笑顔は、どこか刹那的であった。
「あれからもう、七十五年か……」
佐野がつぶやくと、兎澤はうつむく。
看護師は動揺していた。病院に勤めていれば様々な人間模様に出会う。だがこの二人の声には――すべてを失ったもの特有の、哀しさをこらえすぎた結果の空虚な明るさがあったからだ。
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