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第一章 七十五年後の君へ その一
海が青いとだれが言っただろうか。病室からみえる海は凪いでおり、妙に白けてみえた。海は白い、黒い、闇だ。
青く美しいのは表面の波間だけで、一歩二歩と進むたびに戻れないほどの暗闇が襲う。波間にうかぶ白い泡が、ほどけては浮かび、割れては沈む。その波の音を聞いていると、兎澤は己の体が海の底に沈んでいく思いがした。
兎澤は真っ白な病室から、窓の外を見つめていた。本日も、日本は平和であります。その言葉には賛否両論上がるだろう。特に若者にとっては、今の時代の辛さが身に染みているだろう。だが御年九十を超える兎澤には、ベッドのうえで静かに本が読める日常は、かつて渇望し続けたものだった。
「兎澤さん、体温測りますよ」
という声と同時に、男の看護師が入ってきた。たしか、名前を島といったように思う。毎日定時に行う検温を、慣れた手つきで準備を始める。
「いつも大変だね」
「ほんとですよ。看護師にとって病院は戦場です」
「はは、戦場か」
兎澤は苦笑しながら、体温計を脇に挟んだ。看護師の島は、兎澤の読んでいた本に目をやる。
「『知られざる兵器、回天』……。この本、最近ずっと読んでいますよね」
「ああ……。回天、人間を魚雷に載せて特攻させたものだよ。今の子は知らないだろ」
兎澤が笑いながら言うと、
「いえ、実は祖母が同じ本を持っていて」
と、看護師は意外な答えを返したのである。
「なんだって?」
この時代にこんな青年が回天という言葉を知っているのか。
看護師は、カルテを記入しながらも、真剣な顔で続ける。
「去年死んだ祖母の遺品に、回天の資料だとか本が沢山あって……。僕、母親が早くに死んだのでずっと祖母に育ててもらいまして……」
「そうか……それは嬉しいな。あの頃のことを覚えていてくれる人がいるっていうのは……」
彼の祖母が、回天にどのように関わったのかまでは聞こうと思ったその時だった。
貫禄のある足音が聞こえてきた。コツンコツンと地面に杖をつく音と、強く勇ましくゆったりとした遅い足音が同時に響いてくる。
「おーい、入るぞ!」
病室に響き渡るような声とともに、年老いた老人が現れた。
「なんだぁ、兎澤。明日にはお陀仏みたいな顔しよって」
兎澤は、目の前の老人を、目を丸くして見つめている。一体だれだかも分かっていない風情だった。
乱入してきた老人は、兎澤のベッドの枕元に目線を移す。そこには、一本の朝顔を添えた花瓶と若い頃の兎澤をふくめ、数名の男性の集合写真が置かれていた。
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