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胡桃とは特別親しくしていたわけではない。
名前を知ったのだって最近だった。
挨拶を無視されたことはわりと根に持っていた。
その容姿に僻みもした。
それでも、死んでよかったなんて思えるわけがない。
同じマンションの同じフロアに住み、同じように早川の騒音に悩まされていた。
そのストレスを共有できる者は、お互い以外にいなかった。
なにか一歩でも間違えていたら、自分が死んでいた可能性もあったかもしれないと考えると怖くなった。
早川への怒りが収まらない。
そしてどこかで、早川のことを恐れている自分に気づく。
暖人はある意味で早川が“犯人”なのだと思わずにいられなくなった。
次は自分が狙われるのではないかと想像してしまった。
だけど、今は妙に静かだ。
暖人は耳を澄まして、早川の部屋から物音が聞こえてこないことに気づいた。
どこかへ出かけているのだろうか。
以前までは外に出かける時もテレビを点けっぱなしにしていたのに。
週刊誌の記事によると、早川は仕事をしていないようだった。だから基本的に七〇二号室にいるはずだった。
マンションを近いうちに出ていくつもりのようだが、今のところそんな気配はない。
暖人自身は就職先の会社に相談し入寮の時期を少しだけ早めてもらった。
年明けには、マンションを出て行くことが決まっている。
だから年内、あと二ヶ月はこのマンションで過ごすしかなかった。
記者には平気だと言ったものの、死人が出たマンションで過ごすのは気味が悪かった。幽霊だって本当は怖かった。そしてなによりも早川と顔を合わせるのが気まずかった。
あれこと考えているうちに喉の渇きを覚えた暖人は、台所へ向かった。
台所は玄関を入って直ぐの場所、廊下と一体となっているため、玄関の外の音が伝わりやすかった。
今も、廊下から人の気配がする。
覗き穴から外を見ると、胡桃の部屋に老婆が入っていくのが見えた。
警察やその関係者が部屋を出入りするのがわかるが、老婆がなぜ胡桃の部屋に入っていくのか。
もしかして、老婆は胡桃の親戚なのだろうか。
胡桃の親戚ならば少し聞きたいことがあったため、暖人は廊下に出てみた。
そして胡桃の部屋のインターフォンを鳴らして、老婆が出てくるのを待った。
けれどいつまでも経っても返事はなくて、続けて何度か押してみた。
すると隣の七〇二号室の扉が開いて、早川が顔を出した。
早川は出かけておらず、ずっと部屋の中にいたようだ。
暖人は予期せぬ早川の登場に、一瞬思考が停止した。
「……あんた、なにしてんの?」
早川は疑わしそうに目を細めて暖人を見ていた。
一方、暖人は疾しいことなどないはずなのになにか悪いことをしているのを見つかってしまったような気分だった。
「……いや、あの、お婆さんが部屋に入っていくのが見えたから、胡桃さんの親戚かなって思ったんですけど、出てもらえなくて……」
「なにそれ。そのお婆さんが親戚だとして、あんたにどんな関係があるの? いったい、なにをするつもりだったの?」
「俺は、ただ、お悔やみの言葉を……」
「引っ越しの挨拶はしないくせに、そういうのはちゃんとするんだ」
どこか小馬鹿にするように言う早川に暖人は苛立つ。
元々暖人は早川のことが大嫌いだった。
それはたぶん早川も同じで、週刊誌のおかげで更に嫌われてしまったはずである。
このまま会話をしていても、お互い不愉快になるだけだ。
さっさと部屋に戻ればいいのだけれど、素直に引き下がるのもなんだか悔しかった。
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