七階

12/14
前へ
/64ページ
次へ
「中には、誰もいらっしゃらないようでした」 「じゃあ、俺が見たのはなんだったんでしょう」 「幻覚でも見ていたんじゃない?」  暖人は清水に話しかけたつもりだったのに、早川が鼻を鳴らして言った。 「いや、幻覚だとは思えません。扉の前に立っていたお婆さんの姿をはっきりと覚えています。確かに、いたんです」 「実際誰もいなかったのにまだ言うの。そこまで自分の間違いを認められないって異常よ。ねぇ清水さん、この人、頭がおかしいと思いませんか?」  早川に振られて、清水は困ったように肩を竦めた。 「色々とあってきっと疲れているんですよ。同じマンションの住民、しかも直ぐ向かい側の部屋で人が亡くなるという経験は、かなりのストレスとなったでしょうね」  まるで同情をするような眼差しを向けられて、暖人は視線を逸らした。  いったいどういうことなのか。  暖人は確かに老婆が部屋に入って行くのを見ていた。夢だったとは思えなくて、突きつけられた現実を単純に受け入れることができずにいた。  一方、清水が言うようにストレスが溜まっているのは確かだと感じた。 「俺、自分が思っていたよりも、ずっとヤバい状態なんですかね。なんか、笑っちゃいますね」 「あまり思い詰めないほうがいいですよ。特殊な状況に巻き込まれたら誰だって冷静でいられなくなるはずです。私が同じ立場だったらもっと取り乱していたと思います」  納得はできないものの、暖人はとりあえず誤魔化すことにして軽い口調で言った。  すると清水に励ますように言われてちょっとだけ気持ちが落ち着いた。 「このマンションは来春取り壊されるようですし、早めに他の移るのも手かもしれませんね」 「年が明けたら出て行く予定なんです」 「じゃあ、ここに住むのもあと二ヶ月くらいですか」 「早く出て行きたいけど、あと二ヶ月と考えると不思議と寂しい感じがします」 「わかるような気がします。色々な思い出が詰まっているはずですからね」  清水と話している間、暖人は背後から早川の視線を感じていた。  恐る恐る後ろを向いてみたものの、早川は暖人のことを見ていたわけじゃなかった。  早川は暖人と清水の間から、胡桃の部屋の中をじっと見つめていた。 「あなたも転居先が決まっているのですか?」  清水も早川のことを気にしてか、質問した。 「……まだです。なかなか、条件が合う部屋が見つけられなくて」  早川は少し間を置いて、暗い声で答えた。 「早く見つかるといいですね」  清水はおそらく本心で言っているのだろう。  早川は複雑そうな顔をしていた。 「それでは今度こそ作業に入りますね」  清水の言葉に、暖人は頷く。  早川もまた頷いて、胡桃の部屋の中へ消える清水を見送った。  最後に目の前で扉が閉まり、暖人と早川は顔を見合わせた。 「あんたも早く帰れば」 「言われなくとも」  早川のつんけんとした態度に、暖人も同じ態度で対応する。  言葉の通り部屋に戻り、覗き穴から廊下の様子を窺ってみた。  見えたのは老婆ではなくて、胡桃の部屋の扉を見つめる早川の背中だった。
/64ページ

最初のコメントを投稿しよう!

59人が本棚に入れています
本棚に追加