七階

14/14
前へ
/64ページ
次へ
 目が覚めるとまだ辺りは真っ暗で、窓の外から雨の音が聞こえてきた。  時計を確認すると、四時を少し過ぎたくらいだった。  まだ起きるには早い。  でも、もう一度寝る気にはならない。  宏美は耳を壁にあてて、胡桃の部屋の物音を拾うことにした。  聞こえるのは水が流れる音だけで、人の気配は全くしなかった。  それも当然だと、宏美は目を瞑った。  そのままうとうとしていると、突然廊下側から足音が聞こえた。  まだ朝早い時間なので、廊下を歩くとしたらマンションの住民だろう。  七階には胡桃が死んで、宏美と岡田しかいない。  だから足音を立てるのは岡田に違いない。  人の出す音には敏感なくせに、自分は配慮が足りない。  宏美は音を出している人間に気づいて壁を殴りたくなった。  だけどなんとか気持ちを抑えた。  まだ胡桃の魂は、部屋の中にいる気がする。  壁の向こう側でぐっすり眠っている胡桃の姿を想像すると胸が締めつけられた。 「胡桃」  宏美は胡桃の名前を呟く。  その綺麗な髪に顔に首筋に触れるどころか、本人の前で名前さえ呼べなかった。  今、胡桃の身体がどこにあるのかわからない。  胡桃の親戚でも知り合いでもない宏美は、胡桃の葬儀がどこで行われたのかを知らなかった。  せめて線香を上げたいと思ったが、胡桃の遺骨がどこにあるのかを教えてくれる人は誰もいない。  だから岡田に老婆が胡桃の部屋に入るのを見たと聞いた時、実は期待した。  老婆が胡桃の親戚ならば、胡桃の位牌に手を合わせられたはずだ。  ひょっとしたら、なにかしらの形見をわけてもらえたかもしれない。  改めて岡田への怒りが沸き起こる。  あいつは今後、どうするもりなのか。  宏美は岡田に復讐を誓いながらも、今後の岡田の出方が気になった。  宏美が岡田を恨んでいるように、岡田も宏美のことを嫌っているようだった。  その理由は騒音問題が関係しているようだが、現実の幻覚が混同した末に胡桃の死の原因を勘違いしたまま暴走されたらたまらない。  宏美はふと岡田が年明けにマンションを出て行くと言っていたのを思い出した。  岡田が出て行けば、七階フロアは宏美と胡桃だけのものになる。残り三ヶ月だけだけれど胡桃と二人で過ごせるのだ。  岡田のことを考えると気が立ち、胡桃のことを考えると心が落ち着く。  宏美は胡桃のことだけを考えようと、また意識を壁の向こう側に移した。  そしてどうせ時間に限りがあるのならば、胡桃の部屋の中で生活したいと思いついた。  三階から七階に移動する手続きは簡単だった。  ならば隣に転居する手続きはもっと簡単だろうか。  今直ぐにでも手続きをしたいが、自殺者が出た部屋に移りたいというのは流石に変に思われるかもしれない。  おそらく正式な手続きをふむのは難しい。  ならばもう少し落ち着いてから部屋に忍び込もう。  とにかく岡田さえいなくなれば、フロアでなにをしても宏美の自由だった。 「あの部屋で、一緒に暮らそうね」  宏美は胡桃と内緒話をするように小声で囁く。  甘ったらしい自分自身の言葉が、やけに耳に残った。
/64ページ

最初のコメントを投稿しよう!

59人が本棚に入れています
本棚に追加