騒音

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「馬鹿みたい」  管理会社に電話しようかと暖人と海藤が話していると、それまでずっと黙っていた早川が発言した。 「あのさ、そういうの、いい加減にやめたほうがいいと思う」 「えっ? そういうのって、なんですか? 俺らなんか不味いことしてます?」  暖人は故意に早川の存在を無視していた。なにを言われても相手にする必要はないと思っていたものの、事情を知らない海藤が早川に聞き返してしまった。 「くだらない嘘をつくのを、やめろって言ってんの」 「えっ? 嘘?」 「嘘をついた覚えなんてないんですけど」  黙っていられなくなって、暖人も口を開いた。 「だったら余計にたちが悪い。あんたやっぱり、幻覚を見ているのよ」 「幻覚って?」 「この間も言っていましたが、そう何度も幻覚を見るわけないじゃないですか」 「薬物常習者なら、常に幻覚を見ていても全然不思議じゃないわ」 「薬物常習者!?」 「は? 誰のことを言っているんですか?」 「あんたに決まってるでしょ」  早川は自信満々に言い切る。  暖人は思いもよらない決めつけにただ驚いた。 「暖人、薬物ってなに? なんかヤバいことやってるの? えっ? マジ? お前、マジ?」  海藤は暖人以上に動揺し、目を丸くさせていた。 「薬なんて、やっているわけがないだろ」  暖人はとりあえず海藤に否定して、早川を睨みつけた。 「本気で意味わかんないんですけど。マジでなんの話をしているんですか?」 「とぼけないで。昨日同様明らかな幻覚を見ていて、もう言い逃れはできないから」 「だから、幻覚なんて見ていません」 「見てるじゃない。昨日のことをもう忘れたの? お婆さんが中にいるって騒いで、結局誰もいなかった。あの時、清水さんがあんたのことを憐れむような目で見ていたわよ。あの人も、あんたが薬をやっていることに気づいたでしょうね」 「昨日は、ただ寝ぼけていただけです。清水さんが言っていたとおり、疲れていたんです」 「じゃあ、今は?」 「寝ぼけてないです」 「じゃあ、子どもは?」 「中にいるはずです」 「いないのよ。子どもは最初からいない。お婆さんも子どもも存在していないのよ」 「だけど、俺は見たんです」 「話が進まないわ」 「どっちのせいですか」 「どう考えてもあんたのせいよ」 「はぁ。ほんと、埒が明かないので解散しますか」 「逃げるなよ」 「そもそもなんの戦いなんですか」 「元はと言えばそっちから振ってきた戦いでしょ。週刊誌の記事、なんなのよ」 「ああ。騒音問題に悩まされていたのは本当ですから」 「そっちじゃない。胡桃の部屋のことよ。私は普段、ほとんど家の中で過ごしているの。だけど、七〇一号室に人が訪ねているのを見たことは一度もない。それなのに人の出入りが頻繁だったって、どうしてそんな嘘の証言ができたの?」 「実際に見ていたんだから、普通に証言しますよ」 「私は知らない」 「どうやらそうみたいですね。あなたが知らないだけだった。自分が知らないからって、俺の言葉を全部嘘だって決めつけるのはどうかと思います。早川さんの部屋から七〇一号室の扉は見えないでしょ。でも俺の部屋は七〇一号室の正面にあって、だからこそよく見ていたんですよ。それに早川さんは普段酷い騒音を出していた。だから隣の部屋の扉が開く音が聞こなかったのも当然ですよ」  暖人が皮肉を込めて言うと、早川は鼻で笑った。 「幻覚を見ているだけじゃなくて、幻聴症状もあるようね。悪いことは言わないから、早く自首しなさい。このまま社会に出ても、ろくな大人にならないわよ」 「あなたこそどうなんですか? 自分が出した騒音で頭をやられたんじゃないですか? 社会復帰するために病院に行ったほうがいいですよ」 「自首しないなら私が言うから。警察とあの時の記者に、あんたが薬をやってるって、告発してやる」 「だから、俺は薬なんてやっていません。さっきからもの凄く不愉快です。俺になんの恨みがあってそんな適当なことを言っているんですか?」 「なんの恨みって、わからないの?」 「やっぱり騒音女だって世間に広めたことを怒っているんですか?」 「そんなのどうでもいいわ。私が許せないのは、胡桃のことよ。私は全部知っているんだから。あんたが胡桃を脅していたんでしょ」  早川は暖人に詰め寄るようにして言った。 「どうしてそうなるんですか。色々破綻し過ぎていてついていけないんですけど」 「あんたが殺したのよ」  早川の目は赤く充血していた。今にも目から血が噴き出して来そうで、暖人は思わず後退する。しかし直ぐに早川は身体を寄せ、暖人との距離を元に戻した。 「んなわけないです。俺に胡桃さんを殺す理由なんてないですから」  本当に意味がわからない。  なぜ早川に追い詰められているのか。  俺はなんにも悪いことはしていないのに。  なんでこんなことになっている。  暖人は後退してしまったことが悔しくなり、少し声を大きくして否定した。 「とぼけないで。あんたしかいないのよ」 「そもそも自殺という結論が出ているじゃないですか。妄想もいい加減にしてください。これ以上ごちゃごちゃ言うなら訴えますよ」 「訴えて困るのはあんたよ! あんたが胡桃を殺したって私にはわかってる! さっさと認めなさいよ! そしてあんたが死になさいよ! そうよ! あんたが死ねばよかったのよ!!」  早川は急に大声を上げて、持っていた鞄を床に投げつけた。  暖人の血も一瞬で上がり、咄嗟に対抗策を考えた。  殴るのは流石に不味いと思う理性はあった。だから早川の鞄を蹴り飛ばしてやろうかと思った時、間に海藤が飛び込んできた。 「ちょ、よくわからないけど、お姉さん、落ち着いて! 冷静になりましょうよ!」  いまいち状況が掴めない様子の海藤は、暖人の身体を押し退けてとりあえず早川を宥めようとした。  一方早川は海藤を無視して、床に落ちたままの鞄をガシガシと踏みつけていた。
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