騒音

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 宏美に必要なのは胡桃だけで、他の誰との関係も必要としていない。  ただ、生きるためには必要な物がたくさんあった。  宏美は一週間引き籠った結果、ついに食料のストックが尽きてしまった。  だから深夜二時、廊下に学生がいないことを確認して、そっとマンションを抜け出した。  そして近くのコンビニで大量に買い出しをした。  レジに行くと、若い男の店員が見てギョッとしたような顔をしていた。  その店員をどこかで見たことがあるような気がしたが、よく行くコンビニなので顔を知っていて当然だと思った。  宏美は大きなビニール袋を四つ抱えてマンションに戻った。  深夜二時過ぎということもあり、多くの部屋の明かりは消えていた。けれど三階の、若い夫婦と子どもがいる部屋の明かりは点いていた。  そしてカーテン越しに見える影を目にして、宏美は眩暈がした。  小さい影は、子どものそれで、深夜まで起きるのを許している夫婦に以前から嫌悪感を覚えていた。  赤ん坊が夜中に泣くのはしかたないことだと思う。だけど幼児や小学生に上がったばかりの子どもが遅い時間まで大人と一緒になって大声で騒いでいるのはどう考えて非常識だ。  宏美は三階に住んでいる時、何度か若い夫婦に注意をした。  子どもはゆっくり寝かせてやるべきだと言うと、夫婦はニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべてそうですよねと答えるだけだった。  夫婦の後ろで話を聞いていた子どもは宏美を鬼ババァと呼ぶようになった。そして他の階に住む子どもさえも、宏美の姿を見ると鬼ババァと指をさしてきた。  他の保護者にやめさせるように頼んでも無駄だった。  保護者も子どもも、宏美のほうがおかしいという目で見てきた。  子どもに馬鹿に大人に煙たがられ、いい加減耐えられないと思った時、宏美はエントランスで胡桃の姿を見かけた。  胡桃が通りすぎる時、それまで騒いていた子どもたちは一斉に静かになった。  胡桃に見惚れ、あるいは恐れるような顔をしていた。  その時、宏美は思った。  胡桃と一緒にいれば、私は誰にも馬鹿にされることはないのではないかと。  実際、七階に移り住んだ宏美は、隣の騒音や子どもの悪口に悩まされることはなくなった。  しかし、胡桃が死んだ途端、四方から糾弾され、以前よりも最悪な状態になってしまった。  あの頃に、戻りたい。  宏美は初めてエントランスで胡桃に会った時に、エレベーターで一緒になった時に、戻りたいと心から思った。  だけど時間は進むだけで、決して戻ることはない。  エレベーターの中に胡桃がいるはずがない。  わかっているのに、期待してしまった。  宏美が荷物を抱えてエレベーターを待っていると、開いた扉から数人の若者が出てきた。  若者たちは宏美の顔を見て少し驚いたような顔をして、それからそそくさと通りすぎた。  宏美はエレベーターの中に入り、マンションから出て行く若者たちの背中を見つめた。  若者たちはチラチラと宏美のほうを振り返り、なにがおかしいのか声を潜めて笑っていた。 “騒音ババァ”  扉が閉まる前、耳に届いた言葉に、宏美の頭の中は真っ白になった。  
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