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「いないよね。実の両親さえも、もう姉さんを愛していないんだから」 「言い加減にして。私を馬鹿にしに来たのならば、もう満足でしょ。さっさとお風呂に入って寝なさい。そして明日、朝一番に家に帰りなさい」  宏美はもうなにも聞きたくなくて、話を切り上げようとする。  しかし、純はそれを許さなかった。 「逃げるなよ。逃げないで、認めろよ。姉さんは、愛することに幸福を感じている。だから生きていられるんだ」 「意味がわからない」 「姉さんは、生きていて、どんな時に楽しいと思える? どんな時に、胸が温かくなるの?」  胡桃を想うと楽しかった。  胸が温かくて、幸せだった。  宏美は答えなかったけれど、純は宏美の心を読んだようで嬉しそうに笑った。 「ユウキ君を想うだけで幸せだった。両想いになれれば、それに越したことはないだろうけど、当時の姉さんは、ユウキ君を見ているだけで幸せだったんだろ。だけど無理矢理引き離されて、おかしくなった。普通に立っていられなくなった。呼吸もできなくなりそうだった」 「純、もういいよ。私の中で、ユウキ君のことはもう終わっているの。私はもう、大人になったの。ちゃんと自分をコントロールできるようになった」 「よくないよ。嫌な予感がするんだ。姉さんは人を愛していないと、生きられない。隣の人、自殺したって聞いた。姉さんは、隣の人に惹かれていたみただね。だけどいなくなって、心の支えがなくなった。それってヤバいよね。いよいよ姉さんが、死んでしまうような気がして、俺は怖いんだ。だから、原点に戻るべきだって思って、今日、ここに来た」 「純?」 「ユウキ君は、同級生の誰にも連絡先を教えなかった。けれどある同級生の父親にだけ、メールアドレスを渡していた」  純は一枚のメモを宏美に差し出した。 「父さんは、姉さんの行動を逐一ユウキ君に教えていたんだ。今も年に一回や二回、やり取りしている。だから、このアドレスで繋がれるはずだよ」 「……つまり、これは、ユウキ君の、アドレスなの?」 「連絡してみなよ。十年経って、今なら冷静に向き合えるかもしれない。そして改めて、自分の気持ちを伝えてみればいい」 「だけど、また、迷惑をかけるかもしれない。ユウキ君だけじゃなくて、純たちにも」 「一度諦めたんでしょ。大人になって、自分をコントロールできるようになったんでしょ。じゃあ、綺麗に蹴りをつけてよ。そして、堂々と家に、戻ってきなよ。俺が、父さんと母さんを説得するから。もう一度、家族で暮らそう。姉さんの居場所は、このマンションだけじゃないんだよ」  純は泣きそうな顔をしていた。  だけど涙を流す前に、メモを宏美に押し付けて浴室に向かった。    宏美は一人リビングに残されて、ぼんやりとメモに記されたアドレスを見つめた。  手がかりは、こんなにも近くにあったことに愕然とする。  もっと早く見つけていれば、自分は今頃幸せになれていただろうかと考えて、馬鹿らしくなった。  ユウキの連絡先を手に入れても直、胸に手をあてると思い浮かぶのは胡桃の顔だった。  宏美はやっぱり、ユウキの顔を思い出せなかった。  今更ユウキに会っても、なにを話していいのかわからない。  大人になった宏美が本気で愛していると言えるのは、胡桃だけだった。 「胡桃」  宏美は胡桃の部屋と繋がる壁に目を向ける。  愛されていなくてもいい。  だけど、愛していないと立っていられない。  愛を奪われて、上手く呼吸ができなくなってしまった。  純に言われたことは、必ずしも間違っていないと宏美は思う。  そして少なくとも自分は弟に愛されていたことを知って、迷いが出てきた。  死ぬのが、ほんの少しだけ怖くなった。  次の日、純は素直に家に帰った。  純は別れ際、いい報告を待っていると宏美に言った。  けれど宏美は、なにも応えられなかった。
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