七階

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七階

 【七〇二号室】    テレビの音量をいくら大きくしたとしても、外からの気配を完全に遮断することはできない。  早川宏美は、壁を介して伝わる人の気配に苛立ちを募らせ、無駄だとわかりながらもテレビの音量をまた上げた。  すると気配は一瞬だけ消え、それから再び押し寄せてきた。  気配は小さくなるどころか益々大きくなっているように感じて、宏美はリモコンを壁に投げつけたくなった。  このままでは、怒りが収まらない。  そして、この怒りは伝染している気がする。  宏美には、外にいる人間たちが怒っているのがわかった。  自分が怒らせているという自覚もあった。  テレビの音量は、騒音として廊下に響いているらしい。  わかっていても反省しないで、タダでテレビの音量を下げるつもりもなかった。  宏美はマンションの住民で、部外者なのは外にいる人間たちだった。  追い出す権利は自分にあると思って、でも実際に出て行けとは口にできずにいる。  隣の部屋の住民が死んでしまったのだ。  外から人が集まるのには十分理由があった。  しかも事件か事故かわからない現状でなにを言っても無駄なことは、宏美もちゃんとわかっていた。わかった上での、無言の抗議だった。    数週間ほど前、宏美の隣の部屋、七〇一号室の住民の男が自殺した。  警察は当初、自殺の処理に慣れた様子でマンションにやってきた。  けれど男の部屋に第三者の血痕が見つかったことにより、急に慌て出した。  事件である可能性が出て来てしまったのだ。  それから男が犯罪者であることが判明した。  犯罪歴のある男の不審死は全国ニュースとなって、世間から大きな注目を集めることとなった。  七〇一号室の住民、胡桃正治は、多くの女性たちを騙してその人生をめちゃくちゃにしていたらしい。  宏美は胡桃の正体を知って、最初はなにかの間違いだと思った。  胡桃はとても悪いことをしているような人には見えなかった。  宏美の目にはむしろ、胡桃が天使のように見えていた。  胡桃は服装次第で女と間違われそうな綺麗な顔をしていた。  薄い唇に、痛みのない黒髪。肌が白く、涼しげな目が印象的な人物。  新聞に載った、たった一枚の写真から溢れ出る憂いが、人々の想像を掻き立てた。  事件性の有無よりも、胡桃の容姿こそが世間から大きな注目を浴びることに一役買ってしまったのは明らかだった。  胡桃はもう死んでいるのに、犯罪者なのに、ファンと名乗る人間が次々と出現した。  ネット上ではファンクラブが作られ、数千人が参加していた。  一部はマンションまで押しかけて、うちわを手に必死になにかを喚き訴えていた。  中にはマンションの敷地内にまで入ってくる者もいて、宏美は不審な人物を見かける度に警察や管理会社に通報した。  胡桃のファンには、警察も管理会社もうんざりした様子だった。    前までは、本当に静かなマンションだった。  しかし胡桃の死を契機に、宏美の日常は目まぐるしい変化を遂げた。  警察から事情聴取され、記者と名乗る人物から度々インタビューを受け、マンションに押しかける胡桃のファンを追い出す。  胡桃の隣に住んでいたというだけの理由で、宏美にはやるべきことがたくさんあった。  そんなふうにまるで関係者のように振舞う一方で、直ぐ隣に住んでいたのに胡桃のことをあまり知らなかったのを思い知らされた。  宏美がマンションに引っ越してきたのは六年前で、胡桃がマンションに引っ越してきたのは二年前だった。  その二年前のことを思い出すと、宏美は今でも胸がドキドキしてしまう。  二年前、宏美は同マンションの三階に住んでいて、ある日エレベーターの中で偶然胡桃に出くわした。  その時、宏美は胡桃に一目惚れしてしまった。  とても挨拶をする余裕なんてなかった。  その綺麗な顔を見て、息をするのも忘れてしまいそうなくらいの衝撃を受けた。  ただ唖然と胡桃の顔を見つめていることしかできなかった。  胡桃のほうは挨拶どころか、宏美と目を合わせようともしなかった。  宏美の熱い視線に気づかないはずがないのに、同じ空間に自分しかいないような振る舞いだった。  それから宏美は胡桃が七階の住民だと知って、同じマンションに住む住民同士自然と繋がりができることを期待した。  しかし実際は、胡桃と繋がりを持つどころか、ほとんど出くわすこともなかった。  胡桃は夜の仕事をしているようで、帰宅時間はまちまちだった。  同じマンションの中でも、三階と七階は遠かった。  すっかり胡桃に恋をしてしまった宏美にとってその距離はじれったいものだった。  宏美は仕事をしていないため胡桃の行動を見張る時間はあった。けれど、そのためには常にエレベーターやエントランスが見える場所にいなければいけなくて、他の住民の目もあるため自重せざるを得なかった。  しばらくの間、胡桃と会えない日々が続いても、宏美の胡桃への想いは収まらないで、むしろ膨れ上がっていた。
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