七階

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 宏美は毎日、飽きることなく胡桃のことばかりを考えて過ごした。  胡桃はどんなタイプの女が好きなのだろう。  胡桃には派手なタイプの女よりも控えめなタイプの女が絶対に合っている。  私のようなタイプのほうが、きっと上手くやっていける。  胡桃の職場はどこだろう。  胡桃にはバーテンダーの恰好が似合う。  無愛想な顔をしながらも最高のカクテルを作り出す。  お酒が飲めない私への配慮も、きっと忘れないでくれるはずだ。  胡桃の好きな食べ物はなんだろう。  胡桃は意外と、甘い物が好きそうだ。  ケーキを一口食べて、顔をとろけさせていたら、たまらない。  胡桃が喜んでくれるのならば、私は私の分のケーキも胡桃に譲ってしまうのだろう。そして、お菓子作りにはまってしまうのだろう。  胡桃の出身地はどこだろう。  胡桃は肌が白いから、東北から上京して来たのかもしれない。  実家には子どもの頃から飼っている犬がいて、スマホの壁紙は犬の写真にしていたらいいと思う。  その写真を二人で見ながら、いつか一緒に会いにいこうと約束してくれる。  そして実際に会いに行く時、私たちは彼の両親に結婚の挨拶をするのだ。  犬も、両親も喜んでくれて、私たちの気持ちも、最高に盛り上がる。幸せじゃないはずがない。   胡桃の部屋の中はどうなっているのだろう。  男の人の一人暮らしだ。散らかっていても構わない。なんなら、私が片付けてあげたい。料理も、洗濯も、全部やる。結婚したら、家事を手伝ってくれなくていい。子育ても頑張る。だけど優しい胡桃のことだから、私が何も言わなくても手伝ってくれるはずだ。子どもも、きっと可愛いはずだ。  胡桃との未来に向けて、心の準備はいつでもできている。  あとは、きっかけさえあればいい。  宏美は胡桃について様々なことを想像するたびに、自分と胡桃の距離が少し近づいたような気もしていた。  そして宏美は、思い切って七階の部屋に移り住むことにした。  胡桃の部屋は七〇一号室で、丁度隣の七〇二号室が空いていた。  胡桃の部屋の向かい側には、男子大学生が入居しているようだった。七階には胡桃を含めて五人しか住民がいなかった。  三階には子供がいる家族が数組いたため、宏美は大人しかいない七階の静けさに驚いて、胡桃の存在を抜きにしても気に入った。  引っ越しを終えた日の夕方、宏美は自家製のジャムを持って胡桃に挨拶に行った。  しかしインターフォンを押しても中から胡桃は出てこなかった。  不在なのかと自室のベランダ側に回ってみると、部屋から明かりが漏れているのが見えた。  胡桃が中にいるのは確かで、だけど外に出られるような状況じゃないのかもしれない。  おそらくシャワーでも浴びているのだろうと思った宏美は、しばらく経ってからもう一度訪問し直すことにした。  そして深夜一時半。  宏美は五度目の訪問をするため廊下に出た。  非常識な時間であることはわかっていたものの、気持ちを抑えられなくなっていた。  それに胡桃が夜型の人間であることを、宏美はよく知っていた。  間違いのないように、力強く、七〇一号室のインターフォンを押す。  何度も行なったシミュレーション通りならば、胡桃は笑顔で宏美を迎えてくれるはずだった。  しかし、なかなか応答がない。  一度じゃなくて、何度も、何百回だって、押してみる。  もしかして、聞こえていないのか。  インターフォンは壊れてしまっているのか。  ならば、直接扉を叩こう。  宏美がインターフォンを押したり、扉を叩いたりを繰り返していると、七〇六号室の扉が開いて、男子大学生が顔を出した。 「うるさいんですけど」  学生、岡田暖人は宏美を睨みつけて言った。 「あ、あ、ごめんなさい」 「いったいなにをしたいんですか?」 「私、七〇二号室に引っ越してきた、早川です。それで、隣の七〇一号室の人に、挨拶をしようと思って、それで……」  宏美は岡田の登場に動揺した。  胡桃の分しか挨拶の品を用意していなかったため、しくじったと思った。  岡田は今後同じフロアで過ごす住民だった。  必然と頻繁に出くわすことになるだろう。  宏美は胡桃に嫌われないためにも、他の住民との余計なトラブルを避けたかった。 「ふーん。だとしても、こんな時間に非常識なんじゃないですか?」  岡田の表情は険しいままだ。  岡田は宏美に文句を言うためだけに部屋から顔を出していた。 「挨拶は、なるべく早いうちに済ますのがいいと思って。別にこの時間を狙っていたわけじゃなくて、夕方から何度か訪問しているの。部屋の電気はついているし、中にはいるはずなんだけど……」  宏美は言い訳をしながら、岡田から目を逸らして胡桃の部屋の扉を見た。  岡田に責められている自分を、胡桃が助けてくれることを期待した。 「あなたが何度も訪問していたことは知っていますよ。その度に振られていたことも。その部屋に住んでいる人は知らない人の呼び出しに応じないスタンスなんじゃないですか。だとしたら、何度来たって無駄ですよ。近所付き合いなんてそんなものだって割切ったほうがいいですよ」 「だけど、これから隣同士で暮らすのだから、ちゃんと挨拶はしておかないと駄目でしょ。例え関わり合うことがないとしても、それが礼儀でしょ」 「自己満足な礼儀を通すためにマナーを無視していたら元も子もないですよ。どうしても挨拶が必要だとして、明日じゃ都合が悪いんですか? 今日にこだわるのならば、手紙でも添えてノブにかけておけばいいじゃないですか。それで十分気持ちは伝わると思います。こんな時間になってもしつこくすると、逆に印象が悪いですよ。てか、すでに日付変わってますし、正直言って、怖いですよ」  岡田の遠慮のない言い方に宏美はムッとしながら、もっともだと思った。
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