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胡桃は部屋にいる。
それなのに出てこないのは、やはり近所付き合いはしたくないということなのか。
それとも、もう何時間も前から深い眠りについているのか。
一度寝入ったらなかなか起きないタイプだとしたら、可愛い。
胡桃の寝顔を想像した宏美が思わず笑うと、岡田はなんで笑っているのかと訝しげな顔で責めた。
宏美は良い気分を邪魔されて、紙袋に入ったジャムを岡田に投げつけたくなった。
「あなたはここに引っ越して来た時、両隣の人に挨拶をしなかったの?」
「俺がここに入った時、両隣には誰も住んでいませんでしたから。いたとしても、たぶん挨拶はしなかったでしょうね。面倒くさいし、相手にしたって迷惑だと思います。ただ同じマンションに住んでいるだけという関係なんてほぼ無関係と一緒じゃないですか。家族で住んでいるのならばまだしも単身者なら余計仲良くする理由がありません。実際七〇一号室の人も引っ越して来た時、俺に挨拶はありませんでしたよ。そんなものだろうと思います。わざわざ相手の部屋を訪問しなくても、廊下ですれ違う時に軽く会釈するくらいの関係がちょうどいいんですよ」
「そんな希薄な関係じゃ、いざという時に助け合えないかもしれないじゃない」
「いざという時って、どういう時ですか?」
「具合が悪くて倒れた時とか」
「道端で人が倒れていたら、普通の人は助けようとするはずです。それは相手のことを知っている、知らないに限らずですよ」
「普段から交流していれば、よりスムーズに救助できると思うけど」
「交流って言っても、どうせ中途半端にしか係れないなら同じじゃないですか。濃い繋がりとか求めているのなら、シェアハウスとかに入居すればいいんじゃないですか」
「シェアハウスなんて興味がないわ。別に濃い繋がりを求めているわけじゃないのよ。普通に笑って挨拶をし合えるような関係を築きたいの」
「だから、それくらいの関係なら、無理に引っ越しの挨拶なんてしなくても築けますよ。いや、そもそも、その関係を七○一号室の人に求めるには無理があると思いますけど。あの人が笑っている顔とか想像できませんし」
「あなたには想像力がないのね」
「現実のが大事なんですよ」
宏美と岡田と話している間も、胡桃は中から出てこない。
沈黙はやっぱり拒絶に思えて、宏美は悲しくなってきた。
「あれ、なんか早川さんのこと、前もどこかで見かけたような気がするんですけど。引っ越してきたのって、本当に今日なんですか?」
岡田は急に思い出したように、宏美の顔をまじまじと見つめた。
それまでどこか挑戦的だった瞳が丸くなるのを見て、宏美の緊張も少し緩んだ。
「そうね。確かに会っているわよ」
「どこでですか?」
「このマンションの中でよ」
「は? 内見に来た時とかですか?」
宏美は首を横に振る。
宏美もこれまで何度か岡田と出くわしたことがあって、軽く挨拶を交わしたこともあった。
だから岡田が不思議に思うのもおかしくないと思って、はっきりと覚えられていないのも仕方がないことだと思った。
「前は、三階の部屋に住んでいたの。今回、思い切って七階に移り住んだのよ」
「三階から七階に? それってなにか意味があるんですか? どうせ引っ越すならもっと綺麗なマンションとかのほうがいいんじゃないですか? それこそ、近所付き合いが盛んそうな」
「付き合いが盛んである必要はない。無意味に騒がしいのは嫌いだから。私はこのマンションが気に入っているの。だけど三階には子供連れの家族が数組入居していて、なにかと煩かったのよ。注意しても、直らない。あそこには人の迷惑を考えられない人たちが集まっているの。ずっと我慢していたけれど、いい加減限界だった。七階は思っていた通り静かそうでよかったわ」
「なんて言うか、神経質なんですね。生きるのが大変そうだ」
岡田は奇妙なものを見るような視線を宏美に送る。
どうやら岡田はこれまでの人生で騒音に悩まされた経験がないようだった。
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