七階

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 気持ちを落ち着かせて、改めて岡田と向き合う。  宏美は岡田にジャムが入った紙袋を差し出した。 「これ、あげるわ」  冷めた振りをしておいて、再び胡桃の部屋のインターフォンを押す度胸はない。  宏美は胡桃との接触を一旦諦めることにした。 「えっ。でも、これって……」 「まずは隣への挨拶を済ませた後、七階フロアの住民全員に挨拶をしに行こうと思っていたから。あなたにも同じ物を渡す予定だったのよ。だから、遠慮しないで受け取って」 「まじっすか。でも俺、色々失礼なことを言ってしまったし」 「もういいわよ。変な時間に音を立ててしまった私も悪かったと思うし」 「なんか、すみません。ありがとうございます」  岡田は驚いたような顔をしながらも謝罪とお礼を言ってジャムを受け取った。  その時、宏美は初めて岡田の全身をちゃんと見た。  年齢は二十歳前後か、まだあどけない顔をしている。  額や頬にニキビができていて、髪は櫛を通してないのかボサボサだった。  大学の名が入っているスエットはよれていて、袖の部分には穴が開いていた。  夜なのに、まるで寝起きみたいで、だらしがない。  宏美は頭の中で岡田と胡桃を比べてしまった。  胡桃だったら、こんな恰好では外に出て来ないだろう。  いや、胡桃だったら、例え岡田と同じ格好をしていてもみすぼらしく見えないかもしれない。  宏美は岡田と数分会話をしてみて顔見知りになったものの、更に仲良くなりたいとは全く思わなかった。  それから七階での生活が始まって、岡田とはよく顔を合わすものの胡桃を見かけることはほとんどなかった。  宏美は部屋の中ではいつも耳を澄ませて過ごしていたのに、胡桃の部屋からはほとんども物音がしないで、誰かが頻繁に出入りしている様子もなかった。  代わりに、岡田が出かけたり、帰ってきたりするのには、直ぐに気づいた。  宏美はいつの間にか、胡桃よりも岡田の生活サイクルに詳しくてなっていた。  岡田は大学四年生になってからあまり授業がないのか、朝早く出かけることは滅多にない。  土日はよく泊りがけで遊びに行っているようだった。  基本的に食事はコンビニやスーパーのお弁当で、たまに自炊をする。  カレーが好物なのか、単に作り過ぎているのか、日に何度もカレーの香りが漂ってくることがあった。  そんな岡田の情報は、宏美にとって普段なんの役にも立たない。  だけど七階の他の住民が引っ越し、宏美と胡桃と岡田、三人だけになってからは岡田が外に出かけるのが楽しみになった。  岡田が外に出かけている時は七階に胡桃と二人きりだと思うと幸せな気持ちになれた。  そして岡田も早く引っ越してしまえばいいのにと、ずっと、思っていた。
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