79人が本棚に入れています
本棚に追加
幼い頃によく来ていたとはいえ、あれからもうかなり時は経っている。それでも僕は迷わず、あの頃よく遊んでいた川へ来ることができた。意外と覚えているものだな、と感心してしまう。
「あれ……」
川にかかる橋のちょうど真ん中あたりに人がいた。
ブルーのストライプ柄のワンピースがふわりと揺れている。
僕は思わず腕時計に目を遣った。まさかこんな時間に人がいるなんて。しかも、女性が一人きりで。
その時、足元でザリッという音がした。砂利を踏んでしまったらしい。
しまったと思って前を見ると、女性がこちらを向き、驚いたような顔で僕を見つめていた。
「あ、あの……」
「かっちゃん?」
「え……」
僕は彼女を食い入るように見つめる。
「かっちゃん」とは、幼い頃のあだ名だ。僕の名前、楢崎和樹で「かっちゃん」だ。
そして、ここでこの名で呼ぶ人物は一人しかいない。
「……かっちゃん?」
僕も彼女を呼んでみた。すると、彼女の表情が瞬く間に崩れ、泣き笑いのような顔になる。
「ほんとに、かっちゃん?」
もう一度呼ぶと、彼女は嬉しそうにコクンと頷いた。
記憶が一気に蘇る。彼女がずっと探していた人だった。
そうだ、こんなに大切なことを、どうして忘れてしまっていたんだろう?
彼女の名前は高瀬華也。
僕たちはお互いを同じあだ名で呼び合っていた。
僕は彼女に駆け寄り、マジマジと顔を眺める。
すっかり大人になった彼女は、清楚で控えめなお嬢さんといった風貌で、昔、山や川で駆けまわっていたおてんば娘には見えない。
それでも、責任感が強くて意思の固い瞳はそのままだ。大人たちに叱られる度、しゅんと項垂れていた真面目さは、ちっとも変わっていない。
「どうしてここに?」
確かに不思議だろう。僕はあの夏を境にここへは来なくなってしまったのだから。
「ずっと……かっちゃんに会いたかったんだ」
「え?」
彼女は驚いた顔をする。
あぁ、これじゃ言葉が足りない。
「僕は……確か小学校の五年生からだったと思うんだけど、ここへは来なくなった」
「うん」
たどたどしく話し始める僕を、彼女が真剣な眼差しで見ている。
決して急かすわけではなく、先を促してくれているような温かな視線。僕はどうしようもなくホッとした。
「どうしてなのかを聞いてみたら、僕が行きたくないと言ったからだって言われて……。でも、僕はそんなことを言った覚えはなかったんだ」
「うん」
都度彼女が頷いてくれるので、僕はどんどん後を続ける。
「僕は休みの度に、かっちゃんと遊べることが嬉しくて楽しくてたまらなかったのに」
「うん」
「でもたぶん……会いたくないと思ってしまう何かがあったんだ」
そう、彼女に会うと辛くなってしまうような、何か。
「僕はそれを思い出せない。今も夢を見るんだ、その何かを。とても息苦しくて、視界は真っ暗だったのに、突然それが真っ赤に染まって……」
「思い出さなくてもいいよ」
彼女が初めて僕の話を止めた。
彼女を見つめると、彼女は少し悲しそうな顔で首を横に振る。
「思い出せないのは、辛いから。辛いことをわざわざ思い出す必要なんてない」
彼女はそう言ってくれたけれど。彼女は何があったかを、ちゃんと覚えている。
「かっちゃんは知ってるんだね? だったら、教えてほしい!」
僕は思わず彼女の両腕を握りしめた。その時、初めて彼女の腕に微かな傷があることに気付く。
「これ……」
「え? あ……」
彼女は慌ててその腕を隠そうとした。
しかし、もう遅かった。
「あの時の……傷」
彼女は諦めたように顔を俯ける。傷をそっとさすり、静かに顔を上げた。
「もう、ほとんどわからないでしょ? だからうっかりしてた。かっちゃんが辛い思い出として封印してるなら、そのままでよかったのに」
「そんなわけない!!」
大きな声に驚き、彼女がビクリと肩を震わせた。
「全部思い出した。小学五年の夏休み、僕とかっちゃんはいつものようにこの川で遊んでいた。でも、僕はふざけすぎて足を滑らせた。それで川に流されてしまって……。かっちゃんはそんな僕を助けようとして、岩で腕を切って大怪我をした。血がたくさん出て、傷が残るかもしれないと言われて……僕はとんでもないことをしてしまったと、もうかっちゃんには会えないって思って……」
僕はかっちゃんに会うのが怖くなった。
謝りに行きたかったのに、なかなか行けなくて。
でも、やっと勇気を振り絞ってかっちゃんに会いに行った時、彼女はいなくなっていた。
僕にはもう会いたくない、だからいなくなったんだ。
そう思うと、悲しくて、自分のしでかしたことが悔しくて。あの頃の僕は、ただ泣いているだけの情けないやつだった。
「実はね、うち、両親が離婚して……私はお母さんについて東京へ行くことになって。それ、かっちゃんに言えなかった」
「え?」
「私も東京にいたから、本当は会いに行けたの。でもかっちゃん、あれからずっと会いに来てくれなかったから、私のこと嫌いになっちゃったかなぁって」
「そんなことない! あるはずないだろ!?」
僕の言葉に目を丸くする彼女。その後、彼女の頬に僅かな朱が走る。
「でもね、母の再婚でちょっと折り合いが悪くなっちゃって。だからまたここに戻ってきたの」
「……そうだったんだ」
「東京にいた頃よりもずっと、かっちゃんのことを思い出すことが多くなった」
それはそうだ。ここには二人の思い出が詰まっている。
「会いたいけど会えない。どうしたらいいんだろうってずっと思ってた」
「ずっと……探していた」
僕は彼女を抱き寄せ、腕の中に閉じ込めた。
「僕も、ずっと会いたかったんだ」
腕を緩め、彼女の瞳を見つめる。
「ずっと忘れてたくせにさ……。でも本当なんだ。何度も夢を見て、君を探していたんだ。今朝早く目が覚めて、場所だけは思い出したんだ。それで、ここへ来ればもっと思い出せるんじゃないかって、車を飛ばしてきた。そしたら……君がいた」
彼女は驚いたように目を見開き、呆然としながら言った。
「私も早くに目が覚めて……。ここ、いつもは避けてるの。あのことを思い出しちゃうから。でも、今日はどうしてか行ってみようって……」
僕も目を見開き、その後でまた彼女を抱き寄せる。
やっと思い出した記憶。そして、昔のようにまた僕を守ってくれようとした彼女。
二つの大切なものを抱え、僕の気持ちは満たされていた。
「ずっとキミを探していた」
「ずっと会いたかった」
二人の思いが重なる。
山頂部から少しずつ顔を出す太陽が眩しい。陽の光を受け、川の水面がキラキラと輝いていた。
夜明けだ。
彼女の涙に濡れた笑顔を見て、僕は込み上げる愛おしさに、再び彼女をこの腕に強く抱いた。
最初のコメントを投稿しよう!