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彼より先に反応したのは、マルだった。マルは声の方にだっと駆け出した。はずみでリードが手首から外れた。昭二はあわてて犬の後を追う。
山を回り込むように曲がりくねった細道を、犬の白い影が小さくなっていく。
「待て!」
押し殺した声でそう叫び、昭二は転びそうになりながら精一杯のスピードで追いかける。
急に犬の姿が消えた。左脇の水路に飛び降りたようで、リードの蛍光色がいっしゅん路傍にちらりと光った。水路はかなり低くなっており、その脇には所有者ごとに好き放題につくられた畑や果樹園が拡がっている。
呼吸を乱した胸を押さえ、昭二は果樹園の脇で立ち止まる。
見通しのきくギリギリ、道路脇から三列目くらい、低くもつれたように枝が伸びる木の影に、白っぽい塊がみえた。かすかに動いているようだ、マルはそこめがけで駆け寄っていた。
「やめろ」
更に声を押し殺し、昭二はおそるおそる塊に近づく。
地面の起伏が細かくて足をくじきそうだ、枯れた雑草がぶ厚く積り、足首にまとわりつく。
あと数歩、というところになって、ようやく気づいた。
犬はその周りを嗅ぎまわって、低く唸っている――赤っぽい下着姿の、その女の周りを。
髪は長くもつれ、顔を覆っている。まだ三月に入ったばかりだと言うのに、下着の肩ひもがずれて、背中と肩とが丸見えだった。すそも破れ、太ももから裸足の足先まですっかりと泥で汚れ切っている。体育座りのようにできるだけ丸めた体は細かく震え、低くか細い呻きを上げ続けていた。
こんなに近づくまで、全く気づかなかったことで昭二はおろおろとあたりを見渡す。
どういうことだ? 誰かに棄てられた? ここで襲われたのか?
犯人がまだ近くに?
犬は相変わらず周囲を嗅ぎまわって唸り続けている。
「おい……アンタ」
へっぴり腰で、昭二は女の方に小さな懐中電灯を向けた。
黒い髪がもつれて、木の葉や小枝が絡まっている。抱えた膝も腕も、引っかき傷やら泥汚れがひどい。
「だ、だいじょうぶか? 救急車を」
「……か」
女が何か言おうとしている、昭二はそっとにじり寄った。「何?」
「か、か」
「蚊?」
「カラスがぁ」女が顔を上げた。
次の瞬間、昭二は気づいた。なぜ、下着が赤かったのか。
顔を上げた女は、笑っていた。
もつれた髪の合間にのぞく目の片方、ぽっかりと穴があいている。
女が肩を震わせて笑うたびに、眼窩から新しい血が噴き出した。
「カラスが来るぅぅ」
女のことばは、昭二の長い絶叫でかき消された。
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