プロローグ

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プロローグ

 雨にも負けず。風にも負けず。  その赤ん坊は、決して泣かなかった。  鼠ヶ原(そがはら)子夜(しや)の住む家は四階建てのマンションの最上階であり、今にも崩れてしまいそうな向かいの薄汚れた二階建てのアパートのベランダを見下ろすように覗けるようになっていた。  その部屋のベランダはこれでもかと言うくらいにゴミ袋で溢れかえっていて、周囲も段ボールの山などが視界を遮っていて中が見えないように目隠しされていた。故に子夜の部屋が角部屋であり、彼女の住む階の彼女の部屋の角度からでしか、そのベランダの中は覗けないようになっていた。  そのわずかな、ともすれば何かを隠そうとしているかのようなその空間に、その決して泣かない赤ん坊は放置されていた。  ただ、周囲のゴミと同列かのように。  その異変に気がついたのは、二ヶ月ほど前からだったろうか。何気なく窓の外を見ていて、視線を下ろした時に、その赤ん坊が子夜の目に飛び込んできた。彼女が見た瞬間に、たまたまその赤ん坊がわずかに動いたのだ。  初めは目を疑った。カラスか何かだと思っていた。  なぜなら、以前からその家は汚くみすぼらしく、ゴミ屋敷と言ってしまっても過言ではないくらいの有様だったからだ。周囲の住人からは異臭騒ぎまで出ていた程だ。そう言う意味で印象には残っていた。だからこそそんなゴミに塗れたベランダに、清き赤ん坊がいるだなんて思いもしなかったのだ。子夜はよく目を凝らして見たが、それでも確信できなかったため、いつ買ったか忘れてしまった程昔の双眼鏡を持ち出して、そのベランダを注視した。  そこにいたのは、確かに生後数ヶ月であろう赤ちゃんだった。  まだまだ寒さの残る三月初旬。そんな寒空の下に、その赤ちゃんは放置されていた。  放置――それが放置かどうか、確かめたわけではないが、しかしこんな時期に生後間もない赤ん坊を外に放り出すなんて、正気の沙汰さたじゃない。それにその赤ん坊をあやしている親の様子も見た事が無い。子夜が確認しているのは、放置された赤ん坊と、それをたまに部屋の中に入れたり、再び外に出したりしている、柄の悪そうな三十代半ばくらいの男の姿だけである。子夜はそれを知って、すぐに悟った。  これは虐待である――と。  その男は確実にその赤ちゃんを愛してはいないのだと見て取れた。そもそも親として以前に、人として欠落している人間であろう事が容易にうかがえる。そのアパートは、子夜の住むマンションの隣には到底相応しくないくらいぼろく汚く、碌な人間が暮らしていないことでも有名である。そんなところに住む男が、奴隷どれいにも勝る劣悪畜生な環境に晒している子を愛しているのだと言って、誰が信じるであろうか。  そして何よりそれが虐待であるという証拠が、その生後間もない赤ん坊が、泣いていないということだった。  泣いていない――聞けば、それは良いことではないか、とそう思うかもしれない。  でもこの年頃の、まだ言葉も禄に話せず、ハイハイすらままならない子供が泣かないというのは、どうしようもなく異常事態である。  だって赤ん坊が泣くのは、悲しいからじゃないから。  赤ん坊が泣くのは、何かを訴えかけているから。言葉を話せない赤ん坊が何かを表現する方法が、泣く以外に無いから。だから、泣くのだ。  泣いて泣いて、自己主張をする。お腹がすいた、排泄をしてしまった、眠りたい、寂しい……そういった諸々の主張を、赤ちゃんは泣くという一つの感情で示す。  その泣くべきはずの赤ちゃんが、泣いていない。  それはもしかしなくても、赤ん坊による差異なのかもしれない。子夜は子供を持った事があるわけではないから、それがわからないだけなのかもしれない。  でも、彼女はこう確信する。  その赤ん坊は、泣く事を諦めたのだろう――と。  ただきょろきょろと視線を動かし、手足を動かし、ジッとしている。何十分、何時間見ていても、ほとんど泣くことがない。ただ身体いっぱいに埃まみれの毛布などをかけられ、その中で埋もれるように寝て起きてを繰り返している。  それだけ見ていれば本当に可愛らしい存在だ。泣かない赤ん坊なんて、手間のかからないペットのような、背徳的ではあるがそんな印象さえ持たせてくれる。  純情で、従順――でもやはりそれは異常だ。  赤ん坊は、泣かなければいけないのだ。赤ん坊の仕事は、泣くことなのだ。  でも、その赤ん坊は決して泣かなかった。  それは泣いても何もしてもらえないことを本能で理解しているから。  泣いたところで、現状が何も変わらないことを理解してしまっているから。  だから、その赤ん坊は泣かないのだろう。泣くことを、諦めたのだろう。  思う――そんな事があっていいのだろうか。こんな事を許してしまっていいのだろうか。  その赤ちゃんを見下ろしながら、子夜はずっとそう考えてきた。考えて、考えて、それでも彼女にできることなんて、何もなかった。だから彼女はこうして毎日その赤ん坊を見下ろして、その無事を確認してやることしかできない。ああ、今日も大丈夫だ、って遠くから見ていてやることしかできない。  そして今日も変わらずその赤ん坊はそこにいた。  四月初旬。新しい月。新しい季節。そして子夜にとっては新しい生活の始まり。多くの人間が今日この日に新たな門出を迎えると言うのに、空はどうしようもなく曇り空だった。 「……雨?」  ぱらぱらと雨が降ってきて、部屋の窓をつーっと伝っていく。そしてそれは次第に強くなってくる。子夜は心配になって泣かない赤ちゃんを見下ろした。 「子夜。そろそろ時間なんじゃない?」  しかし彼女の集中を、ドア越しの明るい母の声がかき散らした。  もう少し赤ん坊を見ていたかったが、しかしそうしている時間はもうなかった。  大丈夫。強い雨の日はあの親は赤ん坊を部屋に入れる。まるで干していた布団を慌てて取り込むかのように。その程度の優しさは、残っている。だから大丈夫。  それに子夜は、他人の心配ばかりしていられる立場ではない。  今日から、再び自分の心配をし続ける日が始まるのだ。  子夜は母に聞こえない程度にその場で小さく返事をし、ベッドの上に置いてあった真新しい学生鞄と、ブレザーの上着を手にとって着用した。まだ着慣れていないブレザーに、少しの嫌悪感を覚える。この制服に慣れる日は来るのだろうか。そして今日から始まる高校生活に、慣れる日は来るのだろうか。  子夜はドアの前で立ち止まり、もう一度だけ窓の外に視線をやり、振り切るように頭を振って部屋の外に出た。  今日の雨は長引かなければいいな、と願いながら。
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