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獅子の子
少年は大きく欠伸をした。とても大きい、周りに立ち並ぶ緊張しきった新入生から一人だけ浮いてしまったような、そんな緊張感の無い欠伸だった。
そこは大きな体育館だ。真新しい制服を着込んだ新入生たちが一面に敷き詰められ、舞台の上では今時珍しく校長が熱く何かを語っている。そしてそれに新入生たちは真剣な眼差しを向けていた。
四月某日。今日は市立西縄張高校の入学式。新たな生活に思いを馳せ、活き活きとした新入生たちがその場に集っている。
そしてその中に、少年――獅子川幸司郎はいた。
周囲の緊張と期待の入り交じった顔つきとは裏腹に、一人だけ全てを悟っているような、新たな生活に期待など全く寄せていないような、そんな新入生らしからぬ態度をした少年だった。彼はただ気だるそうに後ろに手を回し、睨み付けるように舞台を見ていた。
幸司郎が至極つまらなさそうにしていると、程なくして式が終わり、新入生は各々の教室へと戻っていく事となった。幸司郎もその流れに身を任せて歩き、校舎の最上階にある一年生の教室まで戻っていった。幸司郎が教室の席に着くと、そのクラスの担任である女性教師が、「初めまして」とこちらも活き活きとした表情で生徒たちに軽い冗談を交えながら自己紹介を始めた。それに対し新入生たちも、それを見つめ返す。
幸司郎が教師の話を右から左へ聞き流していると、すぐに教師の言葉が止み、彼女は教室を後にした。どうやら一旦休憩らしい。この後身体測定や教科書の受け取りなど、様々な初期処理が行われるという。
教師がいなくなると、生徒たちは一斉に言葉を発し始めた。この西縄張高校には、近くの地元中学から上がってきた者も多く、クラス内ではすでにいくつかのグループができており、初日であるにも関わらず生徒たちは賑わっていた。ただし幸司郎は隣の市の人間であるため、周囲に知り合いはあまりいなかった。この時期にどうアクションを起こすかで、後の人間関係が決まって行くのだが、しかし幸司郎はそれを危惧している様子も無く、むしろ周囲に壁を作るような顔つきで一人、ぼうっと席に座っていた。
「ようっ相棒!」
しかし、ニヒルを気取っていた幸司郎の肩をガシッと、ある男子生徒が馴れ馴れしく掴んだ。幸司郎はそのあまりの勢いの強さに明らかな痛みを感じながらも、しかしその男子生徒のかけ声を無視した。
「ん? おーい。聞こえてる?」
ぐりぐり、とその男子生徒は腕の力を強くしながら言った。
「……」
「え、あれ……無視しないでよ、なんだ、ツンデレかい?」
「……」
「ね。ねぇ、無視しないでって……聞こえてるんでしょ?」
その男子生徒は初めの快活さを無くし、突如殊勝な顔つきでしおらしくそう言った。
が、それでも幸司郎はそれを無視し、隣に座っていた女子に「トイレってどこかわかります?」と訊いて、その場所を教えてもらい、立ち上がって教室を後にした。取り残された男子生徒は、慌てて幸司郎と同じように教室を後にした。そうして廊下の先、トイレの近くで幸司郎を後ろから捉える。
「コ、コウ。ど、どうして無視するのさ?」
その男子生徒――子鹿忠勝はそう幸司郎に投げかけた。
しかし幸司郎はそれをもなお無視してトイレに入り、二人は並ぶように小便器の前に立った。
「ま、まだ無視するの? いや、確かにさっきのノリはちょっとやり過ぎたけどさ……確かに僕はそんなキャラじゃないのはわかってるけど……」
そうぶつぶつと弁明を繰り返す子鹿を見て、幸司郎は驚いたように肩を跳ね上がらせる。
「おっ、何だお前いたのか? びっくりさせんなよ……」
「ええっ?! 今気づいたのっ?!」
「え、ていうか同じ高校だったんだ?」
「そっから気付いてなかったのッ?! 一緒に合格発表見に行ったじゃん!」
「冗談だ。ちょっと考え事しててな」
幸司郎は途中で面倒になったのか、途端にだるそうな顔でそう言って視線を落とした。
「なんだ、道理で怖い顔してるなって思ってたんだよ。せっかくの新生活のスタートなのに。で、何考えてたの?」
「ああ、いやな、どうすれば女の子を抱けるんだろうって」
「初日から?!」
いきなりすぎるよ、と子鹿は小声で呟いた。
「でもコウ。それはもう少し後で悩めばいいんじゃないかな? 今は、他に悩むこととかあるでしょ? ほら、友達を作らなきゃとか、今度の学力テストのこととか、選択科目の事とか」
「女の子とどうやったら仲良くなれるか、とか」「そうそう、それも……って違うよ!」
幸司郎は鼻で笑って、チャックを上げる。それに続いて子鹿も慌てて小便を終わらせ、幸司郎の後を追うようにして共にトイレを出た。
「それにしてもコウ。君がほんとにこの高校に来るとはね」
「何だ、俺がこの高校に来ちゃ悪いのか?」
「いや、違うよ。そういうつもりじゃなくてさ……コウはほら、てっきりあのまま高等部に上がると思ってたから」
「……悪かったな。こっち来て。お前の高校デビューの邪魔になるものな」
「そ、そんな事言ってないだろ? もう、コウっていつでも卑屈なんだから……」
「あ?」
「な、何でも無い何でも無い! ……でもさ、あの私立中学からこんな何の変哲も無い、ハッキリ言ってレベルの下がる公立高校に入るって、コウの親父さんがよく許したね」
「お前だって同じだろ。何でわざわざこんな公立高校に入ったんだ? あのまま高等部に上がるのが普通だろ?」
「僕は……それはいろいろ事情があるんだよ。実際、僕みたいな小さな会社の社長ぐらいじゃ、あの私立の授業料は高すぎるんだ。父さんも無理して僕をあそこに入れたからね。でも、最近の不況の煽りを受けて高等部まで通ってる余裕も無くて、仕方が無く地元の高校に入ったんだ」
「え、なんか言った?」
「聞いてなかったの?!」
「俺は一行以上の文章は聞いていられない質たちなんだ」
「コウの中の一行が何文字か聞きたいよ」
子鹿は再び肩を落とした。これがいつもの彼らのやり取りである。
「ま、あいつは……関係ないんだよ」
幸司郎はふと、そう呟いた。それは先の子鹿の質問に対する答えだった。 幸司郎は実の父を〝あいつ〟と呼び、その目は明らかに不快な目つきへと変わっていて、嫌な話をしている、と露骨にそう示した。
「あの男はな、結果が全てなんだよ。知ってるだろ、お前も。あれはそういう男だ」
「まぁ確かに、そうだね……なんせ一大企業を統括する人だから」
幸司郎の催促に、子鹿は答えにくそうにそう呟く。
「だから俺は結果を出せばいいんだよ。結果を出していれば、その過程をあいつはどうこう言わない。だから一般人が褒め称えるような天の道を辿らなくても、あの男の求める結果を出すことができればそれでいいんだよ」
「……そっか。コウん家も、まだまだいろいろと大変そうだね」
「何も大変じゃないさ。至極シンプルな問題だ」
ま、端から見れば複雑に見えるんだろうけどな、と幸司郎は付け足して、教室へと入った。
その背中を子鹿は少し悲しそうな目をして見つめ、その後に続いた。
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