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獅子の翼
「お帰りなさいませ、幸司郎様」
幸司郎が夕方に学校から帰って家のドアを開けると、十畳ほどのリビングに続く廊下の扉の前で、メイド服を着込んだ女性が姿勢良く立ちながら幸司郎を出迎えた。
「……ツバサさん。どうしてここにいるんですか?」
幸司郎はそれを見て一瞬唖然とし、すぐに息を吐きながら呆れ気味にそう尋ねた。
「もちろん、私は貴方様の専属メイドでございます故」
「それは僕が実家にいた時の話でしょう? 僕は今はもうあの家を出たんです」
「それは関係ございません。貴方様がどこに行こうが、私が幸司郎様のメイドであることは変わりありません。貴方様が本家を出られたのであれば、この一人住まいが私の働く場となるだけです。私は、幸司郎様の専属です故」
ツバサと呼ばれたメイドは終始堅い口調で姿勢正しくしながらそう言った。
彼女は幸司郎の実家に仕えるメイドで、幸司郎の専属として小さい頃から幸司郎の身の回りの世話をしてきた。年齢は幸司郎と大して変わらず、学年で言えば高校の三年、幸司郎の二つ上に当たる。幸司郎にとってはほとんど幼馴染みと変わらない存在であった。
「それは、あいつの指示ですか?」
「いいえ。鬣輝様から指示されたわけではありません」
獅子川鬣輝――幸司郎の父であり、プライドグループのトップに立つタテガミ製薬の社長。幸司郎は彼の事は決して父とは呼ばない。あいつ――あれ――あの男、といつもそう遠回しに呼ぶ。それを熟知しているツバサは何も訊かずともそれが鬣輝のことであると理解した。
「じゃあどうしてわざわざ?」
「私は物心ついた時から貴方様の専属メイドであることを定められてございます故。そう、私は獅子川家のメイドではなく、幸司郎様のメイドなのです。鬣輝様のご判断の有無に関わらず、優先すべきは幸司郎様なのです」
「ほんと、あなたも変わらないですね」
幸司郎は呆れ気味にそう言いながら傘を置き、靴を脱いだ。彼がリビングに向かって歩き出すと、ツバサはバスタオルを手渡し、扉を開けて幸司郎を中へと導いた。
「困るんですよ、こんな狭い部屋に二人も住めないでしょう」
「もちろん幸司郎様と同じお部屋に住まわせていただこうなどと、そんなやましいことは考えておりません」
「やましいんだ」
「このマンションの近くに小さな部屋を借りております故」
「そう……で、その生活費は?」
「それはつまらぬ些事でございます。幸司郎様が気になさることではございません」
ということは自腹だな、と幸司郎は判断した。
このメイドは本当に良く仕事をするが、どうしてか必要以上に自分へと執着してくる。それが嫌なわけではないが、しかしそれでいいのだろうか、と不安になる時がある。自分と同じ年頃で思春期である彼女が、学校にも行かずにこんな事をしていて、本当に幸せなのだろうかと。
「まぁもう何言っても止めないだろうからいいですけど、敬語はやめてもらえませんか? 僕の方が年下ですし、ここではあの家のしきたりに習う必要もないですよ」
「幸司郎様、メイドなんて言葉、建前なのです。ただ建前としてそう名乗っているだけであり、実際のところ、私は貴方様の奴隷なのです。生活の付属品だと考えていただいて構いません。何でもできるフライパン、くらいに思っていただいて結構です故」
「いや、例えがいまいちピンと来ないですね。そして実際何でもできるフライパンがいたら、それはそれで距離を置きたくなりますし」
「そう、ですか……」
ツバサは悲しそうに声を落とした。自分の気の利いた例えが幸司郎に全く伝わらなかった事が予想以上にショックだったのだろう。
「であれば何でもできる掃除機くらいに思っていただければ結構です」
「いっつも思うけどツバサさんて、例えるスキルが皆無に等しいですよね」
すかさず幸司郎はつっこんだ。
「……申し訳ございません。何にせよ、こんな犬畜生にも劣る私が、幸司郎様と対等に会話しようなど、おこがましいにも程があります故」
「まぁ、そこまで言うなら無理はいいませんけど」
「はい。これが私にとって最良なのだと理解してくださいまし」
「ん。で、この料理もツバサさんが作ってくれたわけですか」
幸司郎はテーブルの上に並べられた料理を見下ろしてそう言った。
いや、そう嘆いた。テーブルの上には、決して一人では食べきれない量の料理がところ狭しと並んでいたから。彼女の言い分ならば、ツバサは一緒に食べはしない。
「頑張りました」
「頑張りすぎです」
少しどや顔のツバサに、幸司郎はすぐさまツッコミを入れる。
ツバサは何でもそつなくこなす模範的なメイドだが、どこか変な所がある。決して欠点とは呼べないが、幸司郎にとってはそれが意外と親近感の持てる部分でもあった。
「どうしてこんなに作っちゃたかな……美味そうですけど」
幸司郎は一枚の皿の上に持ってあるサーモンのカルパッチョをつまんで口に運んだ。味付けも家で食べていた頃のように上手く作られており、家のシェフと遜色ない味付けとなっていた。
「あちらにいた頃は専門のシェフがおり、私は一切関与することができませんでしたが、今日からは私が幸司郎様の料理も担当しなければならないので、少し張り切ってしまいました」
「ありがたいと言えばありがたいんですけど……今度からはもう少し量を減らしましょうか」
「承知いたしました」
ツバサは四十五度の角度で頭を下げ、自分で決めた定位置なのであろう、リビングの角でウエイターの如く黙って立った。幸司郎はそれを気にするわけでもなく、当たり前のように何も言わず席につき、テーブルに並べられた色とりどりの食事を口に運び始めた。
「で、ツバサさんは何か僕にありますか? 言っておきたいこととか」
「私が、ですか?」
「そ。共同生活をするわけじゃあないですけど、僕は一応一人暮らしは初めてなんでいろいろと不備があるでしょうし、何か気になる点とか、ないかなと思って」
幸司郎は美味しそうに並べられた料理を口に運びながら言った。よほどお腹が空いていたのだろう、所狭しと並んでいた料理は食べきれないというその心配など皆無にみるみる内に無くなっていく。まるで野獣のようだ。
「そんな、私が幸司郎様に意見など……いえ、では、一つだけ、話はずれるかもしれませんが、尋ねてもよろしいでしょうか?」
「ん? 何ですか?」
「幸司郎様は、どうして私に敬語などをお使いになるのでしょうか?」
幸司郎は箸を止め、ぽかんとした顔つきでツバサの方を振り返った。
「そりゃあ……だって、ツバサさんの方が年上ですし」
「しかし小さき頃からお家を出になられるつい先日まで、幸司郎様はずっと私に敬語などお使いになられませんでした。いえ、何もそれが駄目だったと言うのではありません。主と奴隷であれば、その関係は至極当然なのです。貴方様は、常に命令口調で私に話しかけていただければよろしいのです」
ツバサは気まずそうに一度視線を左へと泳がせた。
「それなのに先日、本家を出ると鬣輝様に進言なさってから以降、突然、私に敬語をお使いになられるようになりました。それが私にはどうしてなのか、わかりません」
「珍しくよく喋りますね、ツバサさん」
「すいません。控えます」
幸司郎の言葉に、ツバサはすぐに頭を下げて、一歩下がった。
それを幸司郎はくすりと笑いながら、
「ただの心境の変化ですよ。僕は、一時的とはいえあの家を出ることを決めました。もちろん生活費も出してもらってるし、何も完全に独り立ちしたわけじゃあないですけどね。でも僕の中ではあの家と、いや、あの男と決別するための大きな一歩です。だからそのけじめというか、自分なりに変わるぞっていう意思表示をいくつかしました。その一つがメイドとか言った金持ちだけに許された非常識からのできる限りの脱却です。そう決めた以上、僕とツバサさんはただの人生の先輩と後輩です。年下の僕はツバサさんに敬語を使い、敬意を払うのは当然でしょう? もちろん年上だからといって誰でも彼でも敬意を払うなんて、僕は常識のある人間ではないですけどね。でもツバサさんに敬意を払うのは当然の所作だと思うんですけど、何か問題でも?」
「……いいえ。幸司郎様の高尚なお考えを理解できず、お恥ずかしい限りです。申し訳ございません」
「そんなことで謝らないでくださいよ。それより、納得してくれました?」
「はい。もちろんでございます」
ツバサはもう一度頭を深々と下げた。幸司郎はそれを見て前を向き、再び食事を口に運び始める。ツバサは五秒近く過ぎてから低く下げた頭を持ち上げ、その場でジッと立ち尽くしながら食事をする幸司郎の背中を見つめていた。
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