ともにこの街。

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 僕は今日からこの街で、店を開く。  駅から徒歩30分。  緩やかな坂道には何も無い。いやに緑鮮やかな原っぱがこの街の大半で、店も人も無い。あまりいい立地とはいえないかもしれない。  けれど、ここがいい。  今日からこの街は街になる。  電車が走り出す。週末限定で。それに乗って、人が来るはず。  僕はそう思って、この街に入っていいと言われた日のうちに、車を出してここへ来た。  帰ってきたんだ。  30年ぶりに歩くこの街並みは変わっていなかった、と言うと嘘になる。街を出た日に残っていた建物はそのまま立ってはいたが、どう見ても朽ち始めていた。  僕らが暮らした街の生気を吸い取るように、草木が、花が美しく伸長している。  だからたどり着いてまず、この建物が他と違って整備されていたことに驚いた。  この街に人が住めなくなったと決まると、街の土地全ては国に買い上げられた。それは永遠のことだと宣言されたから、僕はよく知らないが、この街の人たちは呆然としたのだと聞いたことがある。  僕がこの街にいた時には、ここは僕が持っていた場所ではなかった。何せ、僕はあの日まだ8歳だったから。  それでも、この場所が懐かしくて仕方ない。ここに僕は住んでいた。  この街に入って良くなりそうだと噂で聞くと、国の担当に連絡をして、この場所を買い取った。これまでの貯金を結構な額投げ打って、僕は僕らの家を取り戻した。  この街に、僕の家族は無かった。  それでも、この場所は僕らの家だった。  担当者は言った。僕は気が早すぎると。  問い合わせてきた人は他にはいなかったそうだ。  30年経ったせいだろうか。  土産物屋をやるのだと伝えたら、それは良いと言ってくれたから、彼は悪い人では無い気がした。どんな物を置くのか聞かれたから、ひとまずは陶芸品だと答えると、彼は感心していた。  そんな彼が、僕がこの街に来るまでに使いやすいように手配してくれたのだと、この街に着いた次の日に聞いた。  目当ての週末が近付いても、僕はこの街で誰一人とも出会わなかった。  毎朝、店の外に出てみて深呼吸をしたとて、隣は雑草が覆い繁っているだけで、おはようとは言えなかった。  自分の感覚で店に並べた品物たちは、みな工房で焼いてきたものたちで、近所の人に見せながら、どこにどんな風に飾ろうか相談するのを何度も想像しながら並べた。  僕らにとってのリビングだった一番広い部屋の窓を開け放すと、そこを店にした。床は温かみのあるクリーム色の木でできていて、壁も同じく柔らかな木目が広がっている。あそこに時計があったなと、窓に向かって正面の壁を見て思った。かつて刺さっていた釘も、きっと錆びていたはずだが、きれいに除かれて、穴も無くなっていた。  この部屋のクリームにどの品物もよく映えた。だから、並べるのは、僕のお気に入り順とかそんなところになった。  あの日までは駅からここまでの間にあった駄菓子屋の三宅さんがイチ押しはこれがいいと僕の頭の中で言ったのは、少女と女性が抱き合う像だった。きっと売れっこないと思っていたけれど、僕の泥団子を褒めてくれていた三宅さんの言うことだから、信じて店先に置くことにした。  土らしくまっ茶色なその像は確かに部屋の外からだけでなく、中から見ても良い出来だと思えた。初夏の景色はあの頃と変わらず、緑という色の多様さを浴びせてくる。少女と女性は陽の光に白みながら、自然に包まれて抱き合うのだ。  僕の作ったものとは思えないほどに幻想的に見えた。この庭で遊んだ少女をイメージして出来上がった品だし、彼女はおよそミステリアスやロマンチックとはかけ離れた女の子であったから、妙な感じがした。  彼女はいじめっ子だった。  よく僕にキモいと言った。  なぜか物を投げてきた。  ブランコから突き落とされた。  それは、駅からこの店までの道のりが思い出させる。  僕はいつも、彼女に追い回されていた。三宅さんの駄菓子屋を過ぎたあたりの公園では、一人で泥団子を作っている僕に彼女は暴言を吐き捨てたし、ブランコの順番が回ってきて喜んで乗れば、隙をついて僕の体を強く押してきた。  お互い友達がいなかったから、あれは遊びだったのかもしれないと今なら思ったりもするけれど、やはりあれは酷すぎるからいじめだったと思う。  彼女はとても目が細い子だった。  それは、いつも不機嫌な顔だったせいな気もする。  肌はコンガリと焼けていて、いつも茶色かった。どれほど外遊びをしていたのか、それが肌色になることは滅多になかった。  しかし、髪は艶々していた。おかっぱ頭は無造作だったが、とてもキレイだった。僕はその頃、そんな彼女のギャップにどこか苛立ってばかりいた。  彼女はとても嫌われていた。それなのに、彼女は時として先生たちに誰よりも強く抱きしめられることがあった。  あの日の前の前の日の夕食もそうだった。彼女は確かその日、家族と外食に行って帰ってきた。それだけでも、僕からすれば贅沢なのに、夕食になると、彼女の隣に綿あめ先生が付きっきりになった。僕らに人気の先生だ。綿あめ先生は、ふと涙を流し彼女に「ここにいるみんなが家族なんだからね」と言って、その頭を撫で続けた。まるでお母さんみたいに。けど、僕はそのせいで綿あめ先生が少し嫌いになった。嘘つきだと思ったから。彼女もまた同じだったのか、俯いて受け流すように頷くだけで、先生に甘えて泣いたりはしなかった。  何があったのかは知らないが、そんな冷めた彼女の姿もまた僕を腹立たせた。  僕は彼女を見てはいつも、何か言いたい言葉を言えずに、地面ばかりを見ていた。  ようやくたどり着いた今日。  僕の店に予想以上の人が来た。SNSで誰かが話題にしてくれたおかげらしい。  皆、店に入る時に妙に顔を輝かせるから、思わず同年代の男性に尋ねた。この店が生き生きしているからだと答えてくれた。  僕らは、この街を一人ぼっちにしてしまった罪悪感を、ここにとりあえずと置いておける気がするんだ。 「久しぶりね。先生のこと覚えてる?」 「渡辺先生!お元気でしたか?」  20代くらいの女性二人と、僕の元に寄ってきたのは、綿あめ先生だった。 「娘たちよ。私もとっくにおばさんになったけど、健康には気を付けてるから安心してね」 そう言うと、僕の馴染みの、しかし少し嗄れて低くなった声で、アハハハと笑った。他の先生よりも豪快に笑うから、なおさら子どもたちに人気のあった人だった。 「誰か来た?ほら、施設の子とか……」 先生にそっくりな若々しい姉妹たちは、僕の作った品々をまた見に行った。 「いえ。多分、誰も」 「そう」 「来ていても、僕も彼らももう覚えてないかもしれないし」 「そうね」  ふと、聞きたくなった。 「……あの日から行方不明なままなのって、一人だけでしたっけ?」 「そうよ。遥ちゃん」 そうだ、彼女の名前は遥だった。 「ご家族って、どうされたんですか?彼女の」 「あの日の前の日に縁を切っていたから……」 「え?」  彼女は、母親との仲がどうしようもなく悪かったらしい。あの日の前の前の日にさらに拗れて、あの日の前の日の昼間に、彼女と母親は別れた。  彼女が帰らなくなって、世の中はパニックの中で、この街は無くなって、母親は先生に電話で言ったそうだ。もう親子ではないから、どうにもできない。ただ、あの子に死んでほしくはないと。  身勝手だが、その電話で泣くこともなかったという母親の紛れもない本心だったのではないかと僕は思った。 「いい子だった。優しい子だった……」  先生は、目に涙を浮かべた。  あの日、僕の家にいた子どもの何人かはやっぱり二度と帰って来なかった。  遺体も見つかった。  その中に、彼女はいなかった。  彼女が特別に優しかったとは思わない。いつも誰かをいじめていて、特に僕には酷かった。  けれど、僕らの誰かが、彼女で無い何かに傷付けられて泣いていると、必ず彼女は誰よりも早く傍に来て、不機嫌な顔で睨むように見つめていた。何も言わなかった。たまに、袖を握りしめてきた。 「この焼き物は色を付けたりしないの?付けられるんでしょ?」 「そうですね。新しく作るのは、カラフルにしようかなって」 「そう。けど、素敵ね」 「いつか、ここの土でも作れるといいんですが……」 「きっと叶うわよ。それにしても、これ」  先生が指したのは、店先の彼女の像だ。 「遥ちゃんに似てる。あの子も、こんな風にお母さんに抱きしめて欲しかったでしょうにね」 「先生と彼女でもあるんですよ」 「え?」 「先生の思いは、きっと伝わっていたはずですから」 先生は、ありがとうと絞り出すように言って、口元を押さえた。  先生と姉妹は、マグカップを家族の分だけ買って帰っていった。  夕方になり、最終電車が近づいた。  店から人はいなくなった。  ほんの少しだけ期待していた。  彼女がもし生きていたら、僕の店に来てくれるかもしれない、と。  けれどやっぱり来なかった。  さっきまで、あんなに彼女の話をしていたというのに、閉店作業に差し込む夕陽の強さにやられ、彼女は存在しなかったのではとさえ思い始めた。  店先の彼女の像も仕方なしにしまった。  店を閉じて、駅まで歩いた。  やっぱりまだこの街は止まっていた。  生きているのは、建物から繁茂する草木ばかりだ。  電車が出て行くのを眺め、少し視線をずらしたら、一際夕陽を受け輪郭がはっきりした橋があった。  僕は、体の中心が熱くなるのを感じた。目頭に何かが溢れてきた。  あの日の前の日。夕方。  彼女は、ここに立っていた。  夕焼けを見ていた。  黒よりは紺に近い空を、紫に照らす夕陽のオレンジが彼女の顔をうまく見えなくしていた。  僕は遊んだ帰りの寄り道だった。 「何してんの?帰んないと先生に怒られちゃうよ」 「帰らない」 「なんで?」 「みんな嘘つきだもん。誰も私のことなんて好きじゃない!ずっと一緒なんてないもん!先生も嘘つきだ!私には、家族なんかいない……」 「……、俺にもいない」 「え?」 「あの家のみんな、家族じゃないし。家族もいない。けど、今一緒にいる」 「だから何?」 「知らない!けど、夕飯抜きは嫌だ」  彼女は変な顔をした。  だんだん夕陽よりずっと赤い顏になって、大声で泣き始めてしまった。  僕は困った。  けれど、僕はその時、彼女のそんな姿を永遠に忘れてはいけない気がした。  家に帰ると、二人揃って怒られて、一緒に抱きしめてもらった。  あの日、彼女と約束していた。  あの橋でまた会おうって。  帰れば会えるのに、妙な約束をした。  叶わなかった約束。  全てが過ぎ去って、僕はあの橋に行った。  何も無かった。  橋も、街も、川も。泥で一色で。    僕は今日、この橋からの景色を昔と重ねる。  そのうちに、僕は僕の工房を思い出す。  彼女の像を何度も作って、何度も叩き割った場所。  壊れた欠片の山は、何も無くなったこの橋の景色にそっくりだった。  僕は、声を上げて泣いていたことに気付く。  今と僕の工房で。  あの像の彼女を抱きしめる女性は、母親でもなければ先生でもない。  今の彼女でなくてはならなかった。  何度も何度も、きっと僕は作る。  彼女は今頃、どんな女性になっていたのか。どんな姿をしていただろう。  きっと、この橋から見渡せる夕焼けを着こなしてしまうくらいに美しかったに違いない。  僕の知ってきた女子は皆、いつしか化粧を覚えて、好みの服からしなやかな手足を見せ、優しげな仕草で落ち着いて振る舞っていった。  恋をすると花開くような表情になったりする。  そうして、新しい家族と力強く生きていく。  彼女もきっと、そうだったんじゃないか。  恋をしたことはあっただろうか。  どんな人になら、あの夕焼けの橋で泣いていた彼女を笑顔にできたのだろう。  それを知ることは、永遠に無くなってしまった。  僕はもう彼女を朧げにしか覚えていない。  日は暮れようとしていた。 「依月くん?君、依月くんだよね?」  突然呼ばれた僕の名前に息が止まった気がした。 「覚えてる?遥だよ」  彼女は、その体から漲るように花開く笑顔をしていた。  キレイな髪がふわふわと風に流れる。  僕は思わず彼女を腕の中に押し込んだ。  彼女は驚いてから、アハハと弱々しく変な声をこぼした。泣いてるのか笑ってるのか分からない。  そのうち、彼女の腕にも力が込められたのを感じた。 「君に見せたくて」  この街は止まっていた。  ひたすらに、朽ちながら生長していた。  けれど僕らは歳をとり続け、幸福と不幸を不規則に生きてきた。  これからは、ともに生きよう。  街は、街に戻り始めたばかりだ。
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