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旅猫と"goodnight fairy"
黒猫さんは旅猫です。
小さな旅行鞄と、鼈甲の吸い口のパイプを蒸し乍ら、彼方の街から此方の街へと、旅をして来ました。
今宵の夜宙の色は、群青よりも濃紺と言った方が正しいのでしょうか。そんな不思議な毛色をした黒猫さんは、笑くぼを作ったお月様をお供に、今夜も後脚を進めています。
黒猫さんは野暮と思いつつも、小さな洋燈と、いつものパイプを持って、豊かな森の中を、ゆっくり歩いていました。
昼間は緑の魔法みたいに、色彩鮮やかだった樹々のざわめき。今はもう一面が、漆黒の木立になり、ヴァニラ・ビーンズの枝のよう。甘い香りはしませんが、ちょっぴり黒猫さんの鼻を、森の夜露が湿らせます。黒き森、フォレ・ノアール。葉は潤い茂り、霧が立ち込めます。
でも、黒猫さんは怖くはありませんでした。
何故って、いつだってお月様が、黒猫さんの進むべき路をほんのりとした月燈りで、照らしていたからです。
お月様は、今夜は一段と不思議な、青い夜だなあと、感じていました。寂しい夜は、漠然とした無機質さを感じるものです。でも今宵、お月様は、夜と言う事象から、ただただ優しさばかりが、近くに在る様に思ったのです。
だから、お月様は珍しく、美しい調べを歌いました。
黒猫さんの脚元に、一条の月燈りが差し込みます。
黒猫さんは、差し込んだ鼻歌交じりのしゃらしゃらした月燈りに、少し驚き、ぽかあ、と星みたいにきらきらした紫煙を吐き出しました。
相棒が上機嫌だと、きっと黒猫さんも嬉しかったのでしょうね。でもちょっぴり黒猫さんは悔しくもありました。だってお月様の歌に合わせて、爪弾く楽器を黒猫さんは持っていなかったからです。では黒猫さんはどうしたでしょう?
黒猫さんはお月様に気付かれないよう、歌に合わせて其の、きらきらな煙を輪っかにして、ぷかぷかと吐き出しました。時には、象牙で出来た、真白い丸い部分を撫で乍ら。
本当に、美しい宵でした。
お月様は不思議な煌めきで異国を歌い、黒猫さんはベルベットの肢体を使って星煙を蒸しました。
そうしたら。
夜宙からとめどなく黄金色の細雪が、はらはら、きらきらと、降って来たのです。それはもう妖精の翅の鱗粉か、お星様が金平糖や螢石になって浮かんでいるみたいな、輝きに満ち溢れた、不思議な光景でした。
黒猫さんはこのきらきらが、何処から降り注いでいるのかと、宙を仰ぎ見ました。
すると、どうでしょう。
大きな大きな蒼い茸が、黒猫さんに覆い被さる様に、また、其処いらの純黒の樹木みたいに、聳え立つ様に、生えているのでした。
お月様は蒼い茸を眺めて、おやあれは、と思案します。
"goodnight fairy"。
パイプを口から離して、小さく黒猫さんが鳴いたのを、お月様は聞き逃しませんでした。
そう、そうでした。
お月様は、くすくす笑います。
此の蒼い茸は「グッドナイト・フェアリー」。
妖精の、良き夜。
脆く儚い砂糖細工。
美しい宵を齎す、蒼い茸。
お月様が優しく優しく、微笑います。
黒猫さんは大きな茸の根本の辺りに腰を下ろして、小さな洋燈をふうっと消しました。もうそれだけで、明かりは要りません。黄金色の輝きが、後から後から、ゆったりと降って来るのですから。
黒猫さんは、改めてパイプにマッチ棒を擦って、火をつけます。深く、深く吸って、また、星煙をふわふわ柔らかく吹きます。
お月様もいつしかまた、歌い始めます。其の歌声はハープやオルゴォルの音色にも聴こえるし、ピアノや弦楽器や、はたまたソプラノや、アルト、それに老人や子供の歌声にだって、聴こえるのでした。
お月様は、静かな此の夜に相応しく歌いましたし、黒猫さんは一匹、誰にも邪魔されずお月様の歌を聴き乍ら、美しい夜を過ごしました。
それだけ?
ええ、今宵の旅猫の物語は、これでお終いです。
然し、黒猫さんにとって、これ程までに満ち足りた夜は、他に在ったでしょうか。
いいえ、いいえ。ありません。
幾千幾万の夜を越えた先で、こんなにも脆く、こんなにも儚く、それなのに美しい宵が在ったと言う事を、お月様は貴方に伝えたかったのです。
黒猫さんは茸の根本で、爆ぜる鉱物の上に薬缶を乗せて、熱い紅茶を淹れました。紅玉の様に艶々した液体をなみなみマグに注いで、霧に冷えた前脚を温めます。
黒猫さんはいつだって、旅猫です。
ですから、ひと処に留まる事は、決してありません。
ですが。
今夜ばかりは。
此の蒼い茸の、黄金の鱗粉の下。
お月様の歌を、聴き乍ら。
花の香りが鼻腔を擽る、熱い紅茶を飲んで。
星煙のパイプを蒸します。
このお話を、きっと黒猫さんは誰にも話しません。だから、これは、お月様と、此の旅猫を巡る物語を読んだ、貴方だけの、蒼い蒼い、宝石みたいな物なのです。
綴られなかった幕間、の様な、物なのです。
お月様は蜂蜜を溶かしたミルクの様に、黒猫さんに笑んで、欠伸をひとつすると、地平線目掛けて眠そうに沈んでゆきます。
ねえ、黒猫さん。
お月様は黒猫さんに最後の月燈りを投げ掛けます。
優しい夜、お月様の歌声は如何だったのか、黒猫さんに聞いてご覧なさい。きっと黒猫さんは驚いて、でも、前脚の一本をそうっと、口に当てるに違いません。
黒猫さんの旅はまだまだ続きます……。
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