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外套と旅猫
黒猫さんは旅猫です。
小さな旅行鞄と鼈甲の吸口のパイプを片手に、彼方の街から此方の街へと、ピンとした髭任せに、旅をしています。
闇が濃くなる夜長、恰幅が良くなったお月様が黒猫さんの旅路を見守るように、優しく照らします。
黒猫さんは澄んだ空気をいっぱいに吸い込んで、紫にチカチカ光る、星屑の煙を吐き出しました。
黄金の稲穂の海からはオルゴォルみたいな虫の音が聴こえて来ます。黒猫さんはいつか旅した真っ暗闇の森の事を少しばかり思い出していました。霧が出て、黒猫さんは旅を中断しなければならなかったのです。けれど其の霧は何処かとっても静かで居心地が良い、不思議な霧だったのでした。お月様が何か尋ねたそうに黒猫さんを見ます。
黒猫さんは毛なみをぶるりとしたかと思うと茶色の羽織を念入りに着直しました。それでもまだ、黒猫さんはぶるりとしています。
「おやおや、こんな夜更けにどんな猫かと思えば。」
お月様が鳴き声のする方を見ますと、小さな丸眼鏡を掛けた灰と黒の縞々猫さんがゆっくりと歩み寄りました。
「仕入れならお陽さんが出てる時にくれば良いのに、お前さんと来たら。」
とぶっきらぼうな口調で、ラムプが点いた明るい店内へと招き入れてくれます。案外みてくれよりもずっと心が広い猫の様だと、お月様はホッとしました。
それから黒猫さんはパイプを口から離して、縞々猫さんと沢山の買い付けをしました。
お月様が見た限り、其れは、例えば北の方でしか採れない樹液や、小さくて透明な鉱物、宝石みたいに輝く蝶々の翅、其れに水鳥の柔らかそうな羽根で出来た飾り編みなんかです。
後、そう、此れを忘れちゃあいけません。新しい蜂蜜色をした琥珀の吸口、刻み煙草少々、鉱石ラヂヲのコイル、そして黒猫さん愛用の旅行鞄の艶出し磨きの壜。縞々猫さんのお手製です。ちょっと手巾で取って、鞄に塗り込んで擦ると、たちまちぴかぴかに変身しました。
「これからあんた一体何処に行くつもりか知らないけどさ、」と縞々猫さんは「俺の店で猫が凍えちまうのはごめんだね。」そう鳴いて、暖かそうな、でも少し毛羽立った外套を投げて寄こしました。黒猫さんもお月様も吃驚して、黒猫さんはパイプを口から落としそうに。お月様はピカッと雷みたいに光るところでした。
黒猫さんは何だかむず痒くなって、口をもごもごしていましたが、矢ッ張りきちんとお礼を言いました。猫は大変気紛れだけれど、礼節を遠い遠い昔から、重んじるのです。其処を黒猫さんは弁えていました。
外套は外側はさらさらした手触りですが、内側は此の肌寒くなった宵にぴったりのお陽様に干した毛布みたいです。黒猫さんは、南東の方の草原を旅した事が、さあっと頭の中を駆け抜け、あの、瑞々しい緑と、青い空を思い出して、大変不思議な気持ちになりました。嗚呼、とお月様と縞々猫さんは思います。黒猫さんが次に旅する場処が解ってしまったからです。
其れは縞々猫さんが珊瑚細工は値が張ると世間話をした時から?其れとも揺らめく碧色のラムプの陰を睛の端で捉えた時から?
「港の船は未だ出ないぜ、」
構わなそうに黒猫さんは、旅行鞄を張り切って、持ち上げました。お月様はなるべくなら砂漠の宮殿に行けば良いのに、と思いましたが、黒猫さんはどうやら違うようです。「お前さんに追っかけ回される舟乗りが不憫だよ、全く。」と縞々猫さんは呆れ気味。
黒猫さんは縞々猫さんに軽く挨拶をして、素早く港の方角へ後ろ脚を進めます。きっと南の島に行く舟乗りを見つける迄、縞々猫さんがくれた外套はとっても役立つに違いありません。
何だかもうお月様は嬉しい様な、楽しい様な気持ちになって、堪らず黒猫さんの脚元を煌々と照らしてしまいます。
其れにどうやら、お星様に出番を譲らなければならないみたいです。名残惜しく、お月様は黒猫さんの尻尾の影を見詰めました。ざざん、ざざんと、銀河と境目が解らなくなった星々犇く夜の海へ。港はもう、直ぐ其処です。黒猫さんは象牙のパイプと小さな旅行鞄を携えて、また、旅に出ます。
それから暫くして、縞々猫さん宛に、一本の上等な果実酒が、船便で届いたようですよ。
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