旅猫と星月夜

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旅猫と星月夜

 黒猫さんは旅猫です。  象牙で出来たまんまるのパイプから、ほうっと紫煙(しえん)(くゆ)らせて、街から街へ、旅して来ました。今夜もお月様が、黒猫さんの旅路を優しく照らします。  今夜は一際清廉に澄んだ星宙が広がっておりました。まるで前脚を伸ばしたら、それこそ星に届いてしまいそうな。こんなに青い青い月夜は、不思議な街への道が開きます。お月様はころころと鈴の音色の様な月灯りを、黒猫さんに贈りました。  其の夜、黒猫さんは珍しくうたた寝をしてしまいました。先刻(さっき)まで、大きな大きな街の駅で、忙しない沢山の猫に揉みくちゃにされて、やっと目当てのプラット・ホームまで来れたのです。黒猫さんは、何だか自分と言う時間を狂わされた気がして、もう大変に疲れきっていました。へとへとです。  (しか)し、ふと、閉じた瞼越しに、吹き抜けたひと筋の《何か》を黒猫さんは感じました。自慢の(ひげ)がピンとしっかり張って《何か》をもっとよく感じ取ろうとします。そこで(ようや)く黒猫さんの()は開きました。  お月様は、やっと気付いた、とサプライズが成功したかの様に、嬉しい気持ちになりました。  黒猫さんの睛に映ったのは、宙です。  黒猫さんは確かに地上に居た筈なのに、気付けば睛の前を青い暗闇に包まれ、棚引く雲が通り過ぎて行くのでした。風が少し冷たく、いつもより強めに(からだ)に当たります。そこで黒猫さんは自分は何か、そう例えば飛行船みたいなのの、甲板デッキに座っているのだと、解りました。  お月様が間近に黒猫さんを見つめます。お月様のなんと大きいことでしょうか!また、なんて美しく、輝いているのでしょう。黒猫さんは風の勢いも忘れて、お月様に魅入りました。だって、こんなにもお月様を近くで見た事なんて、今までに無かったものですから。  おやおや、とお月様はえくぼを作り、静かに微笑みます。ハッと、黒猫さんは我にかえって、甲板の手摺(てす)りを掴みました。お月様は黒猫さんが見やすいよう、飛行船全体を照らしてあげました。  すると、もう黒猫さんは不思議で、だけど堪らなくむずむず嬉しい気持ちになりました。  飛行船だと思っていたものは、大きな(くじら)だったのです。  よくよく観察してみますと、いつか文献(ぶんけん)で見た、マッコウクジラみたいに頭が出っ張っていて、(うろこ)も無いのに、群青や、淡い青や薄紫なんか、時には金色に、船体が波打つ様に光りました。船体だと何故黒猫さんが解ったかと言うと、どうやら尾びれの方はプロペラが(いく)つも回っていて、半分が機械仕掛けだと、見て取れたからでした。脚元には、鯨の立派な骨格が透けて見え、黒猫さんの睛が更に大きく見開かれました。  お月様がひと筋の月灯りを(うなが)します。どうやら鯨の内部に這入(はい)れる入り口の様です。  黒猫さんも冬の精悍(せいかん)な風を、何時迄(いつまで)も受け続けていて、くしゃみが出そうです。自慢のパイプも今はもう、火種が消えてしまいました。  お月様を見上げ、暫く見つめた後、黒猫さんはすうっと鯨の中に這入りました。お月様と黒猫さんの間に言葉はいりません。気の合う仲間や、昔ながらの友達の様な。多分、身近な感情で表すのなら、きっとそんなものなのでしょう。  鯨飛行船の中は先ず階段が下へ、下へと続いておりました。時々、松明(たいまつ)の代わりに、壁から生えた鉱石が、(みち)を仄かに照らします。  何処(どこ)からか、キン、キン、と何かが鳴る音が響いています。鯨飛行船は機械仕掛けと思っていたので、もっと沢山の歯車がぎしぎしと(ひし)めき合っていると想像していたのです。  階段が終わりを告げると、暗闇が出迎えました。黒猫さんが壁を探り探り触っていると、カチリと音がして、睛の前がパッと開かれた様に明るくなりました。 「やっと来たね。」  見れば黒猫さんとおんなじくらいの背格好の黒猫が、沢山の飾り(ふさ)をあしらったクッションに埋もれて、寝台に座っておりました。 「道中、差し支え無かったかい?」  黒猫さんはこの時はじめて、あの、プラット・ホームで感じた《何か》が解りました。ピンとした黒猫さんの髭が、間違う筈がありません。  それは《魔法》でした。  ただの《魔法》ぢゃあ、ありません。(いにしえ)の昔っから代々伝わって来た、強くって、美しい《魔法》です。 「大体の察しはついているだろう?嗚呼(ああ)、気を悪くしたなら謝ろう、君の姿を少しばかり借りたよ、」 「魔法使いが何の用向きか、って聞きたいんだろう、まあ先ずは君の旅行鞄の中身を出してご覧よ。」  魔法使いの黒猫さんは(どっちも黒猫さんなので魔法使いさんと呼びましょう)寝台から立ち上がれないらしく、黒猫さんが魔法使いさんに近付きます。そして、いつもと同じ旅行鞄の留め金をぱちんと外してゆっくり開きました。  するとどうでしょう、旅行鞄からは今にも駆け出しそうな、射干玉(ぬばたま)色の小さな、だけれど立派な木馬が出て来たのです。 「やあ、待っていたよ、」 魔法使いさんが鳴きました。 「さあ、僕にいじらせておくれ。」  魔法使いさんは取り出した丸眼鏡を掛けました。どこか仄青い灯りに包まれた、部屋の作業卓上に、木馬を置きます。小さなのみや、金槌(かなづち)や、ぱちぱちする不思議なモノを操って、魔法使いさんは真剣な(かお)付きで木馬を直して行きました。壊れていないのに、でもどうやっても、それは直している、としか言えないのでした。  黒猫さんは睛の前で繰り広げられる美しく、卓越した《魔法》に釘付けです。      かんかん、キンキン、こつこつ。   さりさり、じじじ、しゃらしゃら、ぷしゅー。 「さてさて、上手くいくかな?」  そして、これは黒猫さんも大変驚いてしまいました。木馬は見事なことに、座る部分、(くら)が全て燦然(さんぜん)と輝く、エメラルドで出来ていたのです。緑に光るかと思いきや、青や黄色、金剛石(ダイヤモンド)かと見紛う程、様々な色に満ちていて、黒猫さんの睛がチカチカします。  魔法使いさんの頭上で沢山の星々がりんりんと鳴りましたが、魔法使いさんの、その、金銀睛(きんぎんめ)は、じっ、と木馬を見つめておりました。 ‬  黒猫さんは何とも不思議な気持ちになります。それはもう、言葉には出来ないのです。ただ。夜風が毛並みを揺らし、小さな小さな、子供の笑い声が聞こえた気がしたのです。  お月様ならば、或いは、生命を吹き込むという事を知っていたかもしれません。  途端に木馬は首をぶるる、と振り、たてがみを(なび)かせました。すうっ、と仄青い部屋中を飛び回ります。 「やあ、良かった、良かった。」  すいーっと、飛ぶエメラルドの木馬を見やって、魔法使いさんは嬉しそうに鳴きました。  黒猫さんはただただ、あるがままを受け入れました。勿論、《魔法》も魔法使いさんも、エメラルドの木馬にも、黒猫さんは驚いていましたが、すとんと心に、落ち着いたからです。それに嬉しくも、美しさと尊さを伴って。 「今夜はありがとう、退屈しなかったかい?」  魔法使いさんは心配げに肩掛けを揺らしました。その横で、エメラルドの木馬が甘えています。それだけで、その光景を見れただけで、黒猫さんは、満足でした。 「最寄り駅まで送ろう、ゴンドアナ号、良いね。」  天井に話し掛ける魔法使いさんに、首を傾げると。 「この鯨の名前さ。」 と、自分と同じ貌で、茶目っ気たっぷりの、ウインクが飛んで参りました。魔法使いさんは、なかなかの食わせ者の様です。  黒猫さんは魔法使いさんに断って、鯨飛行船・ゴンドアナ号の甲板に出て、少しばかりパイプを燻らせました。ひゅう、ひゅう。星宙の旅も終わりが近いからか、何処か寂しく見えました。お月様も眠たげに、朝を迎える準備をしています。黒猫さんは、暫しの友との別れを惜しみます。これ程、お月様との別れが辛いと感じた事はありません。でも。  でも、また、夜はやって来るのです。  黒猫さんは、お月様が彼方の地平線に消えてゆくまで、ずうっとずうっと、パイプを()かして、睛を優しく細めながら、見ていました。お月様も、黒猫さんをずうっと、見ていました。柔らかな毛布みたいに、寄り添って。そして矢っ張り、二人の間に言葉はいらなかったのです。  黒猫さんの旅はまだまだ続きます……。 85d313c2-aadd-4066-a3d3-57451230f082
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