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「沙羅(さら)、俺が悪かった。仲直りしよう?」
「断る」
「一生に一度のお願いだから……!」
「もう別れるって決めたでしょ。どけよ」
親の仇でも見るみたいに睨みつけてくる俺の彼女・沙羅――ひと晩中喧嘩して、さんざん罵り合い「もう出てく!」と部屋を飛び出した彼女を、追いかけてようやく橋の上で俺は立ち止まらせたところだ――彼女の記憶ではそういうことになっているはず。俺にとっては全然違ったが。
「沙羅、いいか。あそこに信号が見えるな?」
「だから?」
俺の問いにキロリと眼差しを向ける彼女に、噛んで含めるように告げる。
「お前、この橋を渡る気だったろ。お前の実家、橋のあっち側だもんな。でも止めておけ。橋を渡ってあの交差点の角まで行くと、お前は必ず死ぬ」
沙羅は口をぽかんと開けた。
しかめ面はそのままで、突然わけのわからないことを話し出した俺にどう対処したものかと困惑している。彼女が戸惑っている隙に、俺は淡々と言葉を継いだ。
「『じゃあ橋を渡って、階段で河川敷に降り、迂回して帰る』とお前は言うかもしれないが、それも止めておけ。階段へ向かうと、お前は足を滑らせコンクリに頭をぶつけて事故死する」
「あんた何言ってんの?」
「事実だ。信じられないかもしれないが、俺はこの目で何度も見てきた」
沙羅を止められなかった自分を――夜から朝に変わりゆく空と、澄んでしっとり冷たい川辺の空気。泣きはらした赤い目の沙羅はこの橋で立ち止まるが、いつも俺を振りきり橋を渡っていく。
同じ夜と朝の間を、俺はもう何十回と繰り返していた。
文字通り時間をループし、変わらない時に閉じこめられている。
今から俺たちは口論をするだろう。そして彼女は橋を渡り切る――沙羅は死ぬ。
橋の向こう側の交差点で車に轢かれて死ぬか、橋を渡った先にある階段から河川敷に降りようとして、足を滑らせ転落死するか。
いずれにせよ、沙羅に訪れる死は橋を渡り切った先にある。
橋の真ん中で、だから俺は懇願していた。
「沙羅、頼むから――行かないでくれ」
いつだって沙羅を救えない。
この橋の上で、彼女を何と言って引き止めたらいいかわからない。
適切な答えを探しあぐねて言葉に詰まり、何度も誤った言動を繰り返しては、同じ瞬間に引き戻されている。命を落とす彼女を数えきれないほど見送って、絶望のままにまた明けはじめの夜へと時は巻き戻される――その繰り返しだ。なぜこんなことが起きているのかわからない。けれど、どんな悪夢よりもたちが悪いと思う。夢なら醒めてほしかった。一刻も早く。
沙羅は口の端をくいっと上げた。
白い朝陽に照らされた笑みは透明で、負けん気の強さがのぞきみえて綺麗だ。俺が惹かれてやまない彼女の黒く潤む目が、挑戦的な光を宿す。
「私たち喧嘩したんだよ。ひと晩中罵り合った」
「でも」
「でもじゃない。一度放たれた言葉はもう戻らないんだから」
俺はうつむく。
このやり取りももう何度目だろう。
最初の頃は「お互い様だ」「お前だって」と言い返していたのに、今では彼女の目を見ることもできない。
(俺が悪かった。あの夜、喧嘩なんてしなければ沙羅は……)
彼女がゆるりと口角を上げるのがわかる。見なくてもわかった。何度も繰り返してきたのだ。ああ、また同じ問いが繰り出される――。
「反省してるなら、私が望む言葉を言ってみてよ」
これだ。これが俺にはわからない。
単なる謝罪だと沙羅は怒り、そのまま橋を渡って行ってしまう。
どんなに言葉を尽くし丁寧に謝っても、沙羅はいつだって納得しなかった。
(わからない。何を言えばいい?)
彼女の望みが何なのか。できることはすべてやりつくした。言えることは大体試しつくしたとも思う。
「……もういいよ」
しびれを切らし、沙羅は俺の横をすり抜けようとする。
「待って!」
反射的にその身を抱きよせていた。縋りつくように。
沙羅は離れようとして、びくりと身を震わせる。俺が小刻みに震え、泣いていることに気づいたのだろう。
「頼むから、……行かないでくれ。……お前を、もう失いたくないんだ!」
「最初に『距離を置こう』って言ったの、あんたのほうだよ?」
「撤回する」
「――私のこと『許せない』って言ったよね?」
「もう、許した。繰り返している間に、何度もお前を失って、俺は――」
橋の向こうで繰り返し死ぬ沙羅を見て、俺は深い後悔を感じていた。
沙羅を失う悲しみと痛み。
彼女の生命がこの世界から消えてしまう、それがどれほどの苦しみを俺にもたらしたか。こうなることをすこしでも想像していればあの夜、絶対に喧嘩なんてしなかったのに。
「今すぐ俺のこと許さなくていい。埋め合わせにこれから何だってする。だから、っ、――帰ろう?」
一緒に家に帰ろう。
橋の向こう側に行かなければ彼女は助かるのだから。
(来た道を戻って、俺たちの家に帰れば沙羅は救われる。橋を渡りさえしなければいいんだから……)
身を離し、沙羅の顔をそっとのぞきこんだ。
彼女は目を細め、俺のことをじっと見据えた。値踏みするみたいだった表情が和らぎ、透明でふわとした笑みになる。いつもの沙羅だ。ほっと力が抜けて、自分の口角もつい緩むのがわかる。
「さ、――ウッ!?」
「もう遅いんだよ」
腹に沙羅の抉るようなパンチが入っていた。呼吸がつまって、たまらずうずくまる。信じられない気持ちで、そういえば、と思い出していた。
(沙羅、最近はシャドーボクシングにはまってたっけ。でもだからって――!)
なんて女だ。
今の微笑みは何だったんだ。
というか、ここまで言っても通じないのか。腹が痛い。立てない。
「さ、ら……っ!」
残念ながらみぞおちに入った拳の威力は絶大で、俺は四つ這いのまま片手を伸ばすことしかできなかった。
橋を歩いていく沙羅は、軽やかに笑っている。
「言ったでしょ、一度放たれた言葉は戻らないって。……大丈夫、私もう許してる。ていうか、たった今ようやく許せたかな。百八十五回目だったけど」
「……え?」
バイバイ。
そう笑った沙羅の背は、朝の白い光に照らされて溶けそうだ。
(駄目だ、そっちに行っちゃ駄目だ! 橋の向こうの交差点でお前は車に轢かれて――!)
見慣れた赤い車が交差点に向かってくる。
俺は知らず叫んでいた。もう間に合わない。俺はまた沙羅を――……。
****
彼をグーパンチで殴った私は、交差点へ満足した気分で歩いていった。
(仕方ないよ。どっちに行っても死ぬんだから)
夜と朝の間、早朝の冷たい空気。川べりのしっとり濡れた朝、この橋の上で同じ瞬間をループしていたのは私も同じだ。むしろ彼よりも私のほうが先に繰り返しをはじめていたと思う。彼のほうは「自分だけが繰り返している」と思っていたようだし、反応を見たくてつい、いつも何も知らないふりをしてしまった。
けれど私だって助かろうと必死に色々手を尽くしてみたのだ。彼がこの繰り返しに気づいたのは、私が万策つきて抵抗を諦めた後のことだ。
(全部無駄だった)
橋の向こう側に行っても行かなくても、来た道へ戻っても私は死んだ。
突っ込んでくる車を避けようとしても無駄だったし、階段で転ばないように注意するのも無意味だった。極端な話、橋の真ん中でじっとしていても私は死んだ。
たぶん、そういう運命にあったのだろう。
この橋に来た時点で自分の死はきっと決まっていた――それがどうして同じ時、瞬間を繰り返すことになってしまったのか。
気恥ずかしくて、私はつい吹き出してしまう。
たぶん未練があったせいだ。
仲直りできないままだったし、本当は彼と一緒に家に帰りたかった。
一緒に帰ろうと、彼の口からそう言ってほしかった。心のどこかでそれがずっと引っかかっていて、けれどもう聞けたから――。
うんざりするほど見慣れた赤い車が交差点へ猛スピードで突っ込んでくる。
この車を避けることはできない。もう何度も試した。私は今から死ぬ。
(きっとこれで終わってしまう)
交差点の右側に冷え冷えと青い山の稜線と、白い光がみえる。綺麗だ。
澄みきった朝の空気を胸いっぱいに吸いこんで、私は最期の息を穏やかに吐き出した。これでようやく彼を時の狭間から解放できたはず、そう思ったら自然と笑みがこぼれていた。
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